Ⅰ 幻の村 ー6
「杏」
また陽に呼ばれて、ターシャは我に返った。並べたはずのトチの実は、また崩れてしまっていた。
陽はため息をつくと、立ち上がった。
「森に行こう」
「森?」
聞き返すターシャには答えないで、陽は家に入り、すぐに戻ってきた。背負えるようになっている大きな籠を、二つ持っている。
少し小ぶりな方の籠をターシャに渡すと、自分は大きな籠を背負った。
「少しは役に立ってよね」
それだけ言うと、さっさと行こうとした。ターシャも急いでついていこうと飛び出すと、陽は「あ」と何かに気が付いて、再び家の中に戻っていった。
ターシャは何が何だか分からない。
だが、森に行くと言うだけで、わくわくした。少なくとも、トチの実を並べているより、興味深いに違いない。
陽は片手に細長い筒状のようなものを持って、外に出てきた。
「これ履いて。杏の足じゃあ、怪我してしまう」
草で編まれた下履きのようなものは、ターシャの足を脛の中ほどまで覆ってくれた。少し歩きにくいが、確かに怪我はしにくいかもしれない。
「ありがとう」
ターシャは素直に礼を言った。
陽は優しいのか冷たいのか分からない。
大らかにとはいえ、公女として今まで生きてきたターシャは、陽の態度に戸惑っていた。自分に対して、こんなふうに接してきた人間はいなかったからだ。
ターシャの礼に、陽は鷹揚に頷いて、「充分気を付けてよ」と釘を刺した。
そう言うわりに、さっさと歩き出して、ターシャを気に掛ける風もない。ターシャは慌てて、陽の後を追った。
針森は豊かな森だ。この森があるおかげで、針森の人間は生きていけている、と陽は言った。
なるほど、昔、針森の村が焼かれた時、「森」さえ生きていれば大丈夫だと言った、村長の言葉は真実だろう。
逃亡の時は、ターシャを絶望に落とす恐ろしいものとしか思えなかった森は、こうして天気の良い昼間に陽と歩いていると、豊かで幸福に満ち溢れている。
陽が貸してくれた下履きは歩きにくく、それでなくても山道になれないターシャは、陽に追いつくのに必死だった。
陽は容赦なくスタスタと歩いていく。そのくせ、ターシャが追い付くのを諦めかけた時に、立ち止まって振り返り、ターシャが追い付くのを待っていたりする。
結果、ターシャは休みなく頑張る羽目になった。
息は上がり、汗が額を伝う。
「あれを採りに行くよ」
もう無理だと何度目かに思ったとき、陽はやっとターシャに声をかけてくれた。
息も絶え絶えに陽に並ぶと、陽が指さした方向に目をやった。
崖から少し張り出したところに、木が一本、崖の脇から枝を伸ばしていた。枝の先に小さな花を咲かせている。
「あの花を摘んできて欲しいんだけど」
「?」
意味が分からなくて、ターシャはまじまじと陽を見つめた。
「あの花の花弁は、いい気付け薬になるんだよ。あ、だから、花びらだけじゃだめだよ。花弁ごと採ってきて」
陽は当然のように説明を続ける。
しかし、もちろんターシャが訊きたいのはそんなことではなかった。
「……あの細い枝の先についている花のこと?」
「そう言ってる」
「下、崖だけど」
「そうだね」
「わたしが?」
「あの枝、俺が乗ると、折れちゃうよ」
しれっと言う陽を、信じられない顔で見る。
公国の人間が聞いたら、卒倒するか、陽を切り捨ててしまうだろう。
「大丈夫だよ」
そう言って陽は、縄を取り出した。
「命綱は持ってきたから」
それに、と付け加える。
「落ちないように、足は支えてあげるから」
そう言って、さも当惑したような顔をつくって、首を傾げた。
「それでも、怖い?」




