Ⅳ 狂気 ー6
「おい、練はいるか」
允の館に戻って来るなり、允の当主は神経質な甲高い声で、侍従を呼んだ。
「はい、ここに」
すっと影のように、当主の侍従である練が姿を現した。跪きこそしないが、深く頭を垂れたまま、主人の許に参じた。
「カエルムが公国から我が国に入ってきたそうだ」
当主は興奮した声音を隠し切れずに、上ずった声で、垂れた侍従の頭に向かって言った。
「左様でございますか」
練は感情の分からぬ声で、顔を上げないままそう応じる。
「うちの…は大丈夫だろうな」
当主が声を潜めて練に耳打ちすると、練は頷いた。
「もちろんです。数に異常はありません」
当主の肩から、あきらかにホッと力が抜けた。
「そうか、ならいい」
そう言って、下がるように手を振った。
練がそのまま下がろうとすると、当主は「待て」と手で制した。
「アレはどうしている」
当主が「アレ」と言うのは、彼の不肖の息子である。氏族長の自覚もない、到底、当主を譲ることなどできないと、当主は常日頃から周りに言っていた。
それでも、允の当主になれるのは、一人息子である「アレ」だけだ。どうあっても強くしなければならない。
允の一族に関わる全ての者に、彼の息子を監視し報告するように、当主は命じていた。
当主の世話をする練には、特に息子の側にも付き、一挙手一投足すべてを報告するように言っていた。
「翠様は」
練は下を向いたまま答えた。
「少し、風邪を召されていらっしゃるようで」
当主は、「ちっ」と舌を鳴らした。
「駄目だな、あいつは」
あれからもう七年か。
翠は歩きながら、無理やり頭の中でそう呟いてみたが、大した感慨は湧いてこなかった。
……あの頃と変わらない。
目当ての家はすぐに見つかった。
賢明にも父の技を継ぐことを止め、支配者の犬になったその家の息子が、実家を修繕した為、周りの家とは一線を画し、目立っているのだ。
だからといって、豪奢なわけではない。
翠は戸口で案内を請うこともせず、その家の中に入った。
一人の女が寝台に横たわっていた。そんなに年老いているはずではないのだが、骨と皮ばかりになり、老女のように見える。
「具合はどうだい」
翠は努めて明るい声を出し、寝台の傍によると、女はうっすら目を開けた。
「ああ、若様、おいでにならずともよろしいのに」
女はか細い声でそう言って、身体を起こそうとしたが、咳込んで苦しそうに身体を九の字に折った。
翠は慌てて背中をさすり、そのまま横になるように促した。そうしなくても、女には起き上がれる力など、残っていないようであった。
女は崩れるように、寝台に身を横たえた。
寝巻の隙間から、背中の肌が一瞬見えた。
「体の向きを変えないと、床ずれを起こしてしまうよ」
翠は優しく窘めたが、女は反応せず、翠の顔に手を伸ばした。
「目を痛めてしまいますよ。そんなことをされてまで、ここに来てはいけません」
翠は濃い茶色の目を瞬かせた。生来の碧色の瞳はあまりにも目立ちすぎる。ここに来るときはいつも、允家で調合した瞳の色を変える目薬を差してくるのだ。
自分で人体実験をしたこの目薬の安全性に、翠は自信を持っているが、こうしていつも心配される。それが翠は嫌ではないが、止めるわけにはいかなかった。
女は肺の病気だった。
命の灯は脈を計り、胸の音を聴く。雑音が酷くなっている。
消えかかっている。
医術の心得がある翠でなくても、彼女が良くないことは分かるだろう。
「練は元気にしておりますか」
女は遠慮がちにそう尋ねた。声を出すのもつらいだろうに、細い息で穏やかに言う。
「元気だよ。貴方の息子はよく働いてくれている」
翠が答えると、「そうですか」と満足そうに息を吐いた。
「会いたいか」
練の母がそのまま目を閉じてしまいそうで、翠は慌ててそう訊いた。口に出してしまってから、そんな当たり前のことを聞いた自分を恥じた。
「息子は会ってくれますまい」
心を乱した様子もなく、練の母はそう言って微笑んだ。
「そんなことはない」と言うことが出来ず、翠は黙ってしまった。練は母に頑なに会おうとしない。
「そんなお顔なさらないでください」
練の母は翠の顔を見つめた。
「わたしは寂しくないのですよ。夫や力に会えるのですから」
翠はたまらなくなって、彼女が横たわる寝台に顔を埋めた。その頭を昔のように、練と力、二人の兄弟の母が撫でてくれた。




