Ⅲ 激流 ー3
『嘘だ!』
ナルが怒りのあまり、手を震わせてそう言うのを見て、ターシャはため息をついた。
『わたしだってそう思うわよ』
地下でのことを二人に聞かせたところだった。ユースティスの姿はなく、謎の男がいたこと。男が持っていたユースティスの手紙。
二人に話しても、現実味がなかった。
情報に感情がついていかないのだ。妙に冷静なのは、そのせいだった。
男が言ったことが本当のことだとは、到底思えなかった。だが、実際ユースティスはそこにおらず、男が持っていた手紙は本物だった。
手紙の内容は、男が言った通り、ターシャとの離縁を望むものだった。
「大公の行動には失望した。君と同じ道は歩めない。この国を良い方向に導くために、君との婚約を解消したい」
信じられない、嘘だと思いたいことが、ユースティスの字で綴られていた。
人は信じたくない言葉を聞くと、思考を停止させてしまうらしい。ターシャの頭は凍り付いたように、考えることを放棄していた。
陽はそれまで黙ってターシャの話を聞いていたが、ぼそりと言った。
「その男は何者なんだろうな」
翡翠の目の男。彼の言葉に、動けなくなるほどの衝撃を受けたはずなのに、ターシャは彼が敵だと断ぜずにいた。
あの時、彼はおそらくターシャたちを助けてくれた。
衝撃のあまり立ち尽くしていたターシャを、男は引っ張って館から連れ出した。地下から抜ける、秘密の通路を男は知っていた。
ラウルに神の薬とやらの説明を終えた陽は、館を辞しても、庭をうろついてターシャを待っていた。急に花壇の側から、見知らぬ男に手を引かれて現れたターシャに、驚きを隠せないようだったが、すぐにターシャの許に飛んできてくれた。
男は陽の姿を認めると、何も言わずに館の中に戻ってしまった。
陽は追いかけようとしたが、ターシャが陽の袖をつかんで引き留めた。
振り返った陽は、彼女のあまりの顔色のなさに、黙って追うのを止め、二人でこの宿屋に戻って来たのだ。
男は、ラウルに気付かれないように、ターシャを逃がしてくれた。それが純粋に善意によるものだとは思っていない。彼にも何か思惑があるのかもしれない。
だが、少なくとも……
「敵意は感じなかったわ」
ナルが何か言いたそうな顔でターシャを見た。だが、結局彼の手は何の言葉も発さなかった。
ターシャは苦しくなって、うつむいた。
分かっている。自分は今、混乱しているのだ。
陽の腕がターシャの頭を抱えるように伸びてきて、優しく撫でた。何度も何度も。
子ども扱いしないで、ほうっておいて、とターシャの心は反発するのだが、それはどれも言葉にならなかった。撫でる手を止めて欲しくなかった。
「大丈夫」
優しい陽の声が降ってきた。
「確かめに行こう」
顔を上げると、なんの拘りもない陽の顔があった。
そうか、この人には何の関係もないのだ。公国もガザも。公女ターシャとユースティスの関係も。大公であるターシャの父が謀反の疑いをかけられ、行方不明であることも。
ただ、ターシャが苦しそうだから、助けようとしてくれている。
「最後まで付き合ってあげるから」
その薄情さが、ターシャには救いになった。
ターシャは何度も頷いた。
「ありがとう」
ターシャが言うと、陽はまたターシャの頭を撫でた。




