Ⅲ 激流 ー2
扉には外鍵が付けられていた。その意味に、ターシャの胸はスッと冷えた。
だが、鍵はかかっておらず、施錠していたであろう南京錠が床に転がっていた。
扉に隙間が開いている。
恐る恐る扉を押してみる。
拍子抜けするほど扉は軽く、すぐに開いた。
中には男がいた。ターシャは踏み込むのを留まった。
肩に届くか届かないかの黒髪。向けられている背中は、華奢だった。
ユースティスじゃない。
ごまかすか、逃げるか。
一瞬迷っている間に、男は振り返った。
踵を返そうとしていたターシャは、その目を見て動けなくなった。
翡翠。
男の目は翡翠のように、深い緑を湛えていた。
「やあ」
男は驚く様子もなく、気安い様子でターシャに挨拶をした。
逃げるタイミングも胡麻化すタイミングも失ったターシャは、唇を噛んだ。
誰だ、この男は。
この館に咎められることもなくいるということは、ラウルの知り合いだろう。
ユースティスは?二階?
「ユースティス殿は、もうこの家にはいないよ」
ターシャの考えを読んだように、男はあっさりそう言った。
「……あなたは誰?」
動揺を押し殺して、ターシャは男に尋ねた。
男がターシャの正体を見破っているかは分からないが、ユースティスを助けに来たということは、分かっているようだった。
それでも咎めるわけではなく、情報を与えてくる。
男はちょっと考えるように、首を傾げた。
「彼の友達だよ」
「その証拠に」と付け加えると、彼は背後にあるテーブルから何かを取り上げた。
そのまま、ターシャに差し出す。
「これを君宛てに預かっているよ」
彼の手にある白いものは、手紙のようだった。
彼はそこから一歩も動かずに、ニコニコとターシャを見つめている。
欲しければ取りに来いということだろう。
言われるままに、部屋に入るのは躊躇われるが、確認しないわけにもいかない。あの手紙が本物かどうか分からないが、それでも可能性がある以上、無視できるものではない。
躊躇していると、上の方から声が聞こえた。
誰か来る。ターシャが身を固くすると、男が短く言った。
「早く、入って」
ターシャは覚悟を決め、足元に転がっている南京錠を掴むと、部屋の中に入り、そっと扉を閉めた。
聞こえた声は、だが地下に降りてくる様子はなく、遠ざかっていった。
その間中、ターシャは目を逸らさず、じっと男を見ていた。
男もやはり動かず、ターシャを見つめている。
時が止まっているような緊張を、ターシャはフッと息をついて破った。そのままスタスタと男に近づくと、男が手にしている手紙を取った。
男はあっさりと手を開いた。
封筒に宛名が書かれている。几帳面な少し細長い手跡。「ターシャへ」間違いなくユースティスの字だ。
「信用してくれたかい?」
ターシャは硬い表情のまま、顔を上げた。
「まだ分からないわ。そもそも、どうしてユースティスはここにいないの?ここにいたでしょう?」
「どうして?」
男の目が探るように瞬いた。
やっぱり。
彼はターシャがここに来ることを知っていた。そしてこんなことをするのは、ターシャが何を知っているか、知りたいからだ。だからわざわざ姿を見せて、ターシャを探っている。
問題は、彼がユースティス側なのか、ラウル側なのかということだ。
もっとも、どちらにしても、ターシャはたいした情報は持っていない。
「あなたがここにいるからよ。どうやってわたしがここに来るのを知ったのかは分からないけど、わざわざ手紙を持って私に接触した。ユースティスはここにいたけど、今はいないからでしょ。どうして?」
反対にターシャが訊くと、男は面白そうに顔を緩めた。
「僕はただの伝言役だよ」
手紙を読んだら分かることだけどね、と前置きする。
「ユースティス殿はラウル殿の名代で、太陽神殿に行ったよ。アラン大公の罪を大神官に告発するためにね」
ターシャは意味が分からず瞬きした。いや、意味は分かる。分かるが、誰の話をしているのか分からなかった。
ターシャが一言も返せないうちに、男は次の言葉を続ける。
「ターシャ殿、ユースティス殿は、あなたとの婚約を破棄したいそうだ」




