Ⅲ 激流 ー1
「神の薬ね」
薄暗い廊下を進みながら、ターシャは呟いた。
どうしてそんなことを言ったのか、ターシャは陽に問いたださなかった。
今、重要なことはそれの真偽を確かめることではないし、陽がただハッタリをかましただけかもしれない。
実際、ラウル・サボンを訪ねる口実が出来た。ラウルは「神の薬」に興味を持った。
「実物」を見せたいからと、陽はラウル邸で会うことを、強く希望した。ラウルは半信半疑の様子であったが、承諾したとオロを通して、伝えてきた。
そうだ。目的はラウル邸に潜り込み、ユースティスを救うこと。今は、それが最優先だ。
宿を出る前に、ナルが教えてくれたサボン邸内の見取り図を思い出しながら、ターシャは自分に言い聞かせた。
今、陽はラウルと話している。その間にターシャが、ユースティスを探す手筈になっていた。単純だが、成功率が一番高い。
問題は、陽がラウルの気を引き続けることができるかと、何の訓練もしていないターシャがラウル邸でユースティスを見つけられるかだ。
陽は「まかせて」と言っていた。
では自分も腹を決めて動くしかないだろう。
バレたら終わりだ。
自ら入ったのだが、もし自分の正体が露になったら、すぐにそこは格好の檻になる。
ターシャは短く息を吸うと、つかの間止めた。それから静かに吐き出す。
大立ち回りなどできない。自分の武器はこの頭だけだ。
ナルの記憶を頼りに、三人で考えた結果、怪しいのは二か所。
二階奥の部屋か、もしくは地下。
迷った末に、先に地下に行くことにした。
時間がたてばたつほど、危険は高まるだろう。
逃げられない方を、先に済ませておきたかった。
自分の婚約者の実家であるが、ターシャは一度も訪れたことがない。公女という立場上、気軽に公舎の外に出られなかったこともあるが、ユースティスがターシャをサボン家、つまりはラウル・サボンに近づけないようにしていた節があった。
ターシャもユースティスとナルの双方に、ラウルの人となりを聞かされていたので、注意は向けていても、会いたいとは思わなかった。
家というものは、主人を反映するというが、サボン邸はまさに陰鬱な館だった。
幸いにも、館にいる人間は少なかった。使用人たちもうつ向きがちで、あまり周囲に気を配っていないようだった。
一応身を隠しながら、地下に続く床扉を探したが、たとえ館の者とすれ違っても、地味な服を着て、足早に通り過ぎる自分を、気にする者はいないような気がした。
全体が暗く、冷たく感じた。
地下への扉はあっさりと見つかった。
地下に降りていくと、陰鬱な印象はさらに深まった。
公舎にも地下があったから、あの暗さと湿り気、独特な匂い、気力を削ぐような空気をターシャは知っていた。
陽の光が少しも入らないというのは、想像以上に人を弱らせる。
こんなところで、あの誠実で真っすぐな、ユースティスが育ったなんて信じられない。
子どもの頃のユースティスを想像しただけで、胸が痛んだ。どんなに息苦しかっただろう。
取り戻さないと。
昔から、太陽神信仰の篤いこの国では、陽の光が届かない地下室は不浄の場所とされていた。
それでも地下室を造る家の目的は、罪人の収容と尋問するためである。
サボン邸の地下室にはそれに加えて、もう一部屋造られていた。
少年ユースティスの部屋。
教えてくれた時、指文字をつくるナルの手は震えていた。




