Ⅰ 幻の村 ー4
一度だけ聞いたことがある。
母の前に大公妃だった人のことを。
その人は内政の腐敗とガザ帝国の侵攻でボロボロになった国を、大公と共に立ち直らせた。自分の身を顧みず、市井に自ら入り、国民に寄り添い、よく話を聞いた。
その人は人々の希望となった。
まだその頃少女だった母も、例外ではなかった。
大公妃であるという肩書以外、何の後ろ盾も持たず、身一つで事を為していく大公妃に、どこの派閥にも属さない貧乏貴族の令嬢であった母が憧れるのは容易かった。
あの方のような女性になりたい。
その熱い思いは、たった三年で阻まれる。
大公妃の崩御。
指針を失くした母は、絶望したという。
それからどういう縁でか、大公妃にと望まれた。
大公妃が亡くなってから、ぼんやりと日々を過ごし、そのうち適当な下流貴族か、商人のところにでも嫁ぐのだろうと思っていた母は、大いに驚いた。
だが、大公殿下と顔を合わせた瞬間、母は悟った。
大公妃殿下に託されたのだと。
大公殿下を。そして、この国を。
その人はただそこに立っていて、何のこだわりもない目で、彼女を見ただけだった。
それでも、その人が会うべき人であることが分かった。
母が言っていた、あこがれの人。
亡くなったはずの大公妃。
「ラン……様」
熱に浮かされたようにそう呟いた彼女に、その人は片眉を上げた。
「蘭よ、ターシャ」
あっさりと名前を当てられて、彼女…ターシャは瞠目する。
まだ名前を告げていない。もちろん、陽にも本当の名前は明かしていなかった。
ラン様に会うまで、誰も信じないで。
それが、母との約束だったからだ。
蘭は気にしない様子で、ターシャに椅子を勧めると、少し笑った。
「わたしに『様』をつけてしまう人なんて、知れてるもの。それより、何があったの?」
他愛無いことだと、さっさと次の要件に入る。それからターシャを連れてきた陽を一瞥すると、「信を呼んできて」と短く言った。
陽が何も言わずに、蘭の家を出て行った。
そう言えば、陽は驚きもしなかった。
……お見通しだったというわけか。
もう一度目の前の人を見る。
いまだ豊かな黒髪、意志の強い大きな目。
そして、温かな光。
頭がはっきりとしてきた。
ターシャを眺めていた蘭は、わずかに目を細めた。
「顔が変わったね」
ターシャは頷くと、蘭の瞳を逃さないように見つめた。
「助けて欲しいんです」




