Ⅱ 蠢動 ー8
基本的に都への道は、この大通りの一本道だ。
本当は、若い男女二人が馬の背に乗って走るなんて、正気の沙汰ではない。馬車の方が普通だし、目立たない。ターシャが針森を目指し逃げた時に、旅人の馬車に紛れ込ませてもらったが、あれが正解なのだ。
しかしターシャたちにはルークスがいた。一度奇跡的に再会できたものを、手放すことはできなかった。
前方の闇がざわざわと動き、塊となってこちらに向かってくるのに、先に気が付いたのはナルだった。
ナルは舌打ちすると、身をかがめるよう、ターシャの身体を押して促した。
ターシャもすぐに、ルークスの首に抱きつくように身をかがめる。
ナルはターシャを守るように、姿勢を低くした。ルークスもそれに応えるように、速度を上げる。
闇の塊は、人の形となって、二人に襲いかかってきた。
ナルは応戦などしなかった。ただターシャに覆いかぶさって、ルークスを走らせる。戦っても負けることが分かっている。多勢に無勢で、しかも相手は武人だ。
唯一、切り抜けられる勝機があるとすれば、相手が馬に乗っていないということだった。
こちらに近づくまで悟られるのを恐れたのだろう。どこかで馬を降りたのだ。
相手がどんなに足が速くても、全力で走る馬には敵わない。
ターシャは全速でルークスを走らせたことがない。というか、あれは全速ではなかったことが、今分かった。
速い。
風の音が痛い。
少しでも気を抜くと落ちてしまいそうで、ルークスにしがみついている全身は、力を入れすぎて、もはや感覚がなかった。
奥歯をしっかり噛みしめていないと、舌を噛んでしまいそうだ。
ルークスがターシャを乗せた時、全力を出さなかったわけがよく分かる。
全速のルークスを乗りこなせる力量が、ターシャにはない。
ルークスはそれを分かっていて、ターシャに合わせてくれていたのだ。
ナルが支えてくれなければ、落ちていただろう。
ナルはなんとかルークスを繰り、敵から逃れたように思えた。
ターシャはひたすらルークスにしがみついていただけなので、状況はよく分からなかったが、痛いほどの圧迫感が不意に途切れた。
風の音までが変わり、ルークスの身体も軽くなったと感じた。
ターシャは身体を起こそうとしたが、ナルは警戒しているのか、ターシャに覆いかぶさったままだった。
やがて大気の匂いが変わり、森に入ったことが分かった。
ルークスが止まっても、ナルがなかなか起き上がらないので、ターシャは不信に思って身じろぎすると、ナルはあっさりルークスから降りた。
……いや、落ちた。
「ナル!」
ターシャは思わず叫んでしまい、慌てて自分の口を手で抑えた。敵がまだ近くにいるかもしれない。
ルークスの足元には、滑り落ちたままうつぶせに倒れているナルの姿があった。
ターシャは反対側から降りると、ナルの許に駆け寄った。
身体に触れると、「ウッ」と唸り、顔が歪んだ。骨が折れているのかもしれない。
触れていた手を離そうとしたとき、何かヌルッとしたものが手に触れた。
ゾワッと怖気が立つ。
本当は匂いで気が付いていた。
金気臭い、独特の匂い。
血だ。
下手に動かしては危険だ。そもそも、ターシャ一人ではどうしようもない。
どうしよう。
かといって、このまま放置していたら危ない。
「ナル」
震える声で呼びかける。ナルには聞こえないことを百も承知でも、呼びかけずにはいられなかった。
ターシャにはそれしかできない。
意を決して、背中を触ると、裂傷があった。そこから血が流れている。
ターシャは上着を脱ぐと、それを傷に押し当てた。
合っているか分からないが、とにかく血を止めたかった。
布を通しても、流れる血のぬくもりを手の平に感じた。ナルの命が流れていく。
そう感じて、ターシャは明確に恐怖を感じた。
誰か、助けて……
傷を押さえている手が震えている。
イヤだ。ナルを殺さないで。
「杏!」
押し殺した声が聞こえて、ターシャは信じられない思いで、顔を上げた。
視界がぼやけて、相手の顔が見えない。
ターシャは自分が不甲斐なく涙を流していることに、初めて気が付いた。
「ナルを助けて…」
振り絞った声に、ぼやけた顔は確かに頷いた。
「大丈夫。助けるから」
陽はそう言って、ナルの傷を押さえているターシャの手を、そっと退かせた。




