Ⅱ 蠢動 ー6
「嫌だなぁ、あの女」
ガザ帝国国王直属の隠密、隼はげんなりした顔で、目的の場所に向かっていた。
こういうことがあるたびに、こんな仕事辞めてやると思う。命がいくらあっても足りないと思う。それに師匠も上司も、「お前のような雑な奴は隠密には向かない」と言っている。それでも結局、まだこうしてここにいるのは……
結局、俺が物見高いんだろうな。
実際、空気の変わった近頃の状況に、少し心が躍ってしまっている。
ここにいるのなら、仕事をしないとな。
見えてきた目的地に、隼はもう一度ため息をついた。
「あら、ぼうや、ひさしぶり」
相変わらず官能的な身体を、自慢げに強調している女を見て、隼は改めてげんなりした。
「相変わらずだね、おばさん」
路地裏にある寂れた酒場。カウンターしかないその店は、だいたい閑古鳥が鳴いている。閉まっていることも多い。だが隼のようにふらりと訪れる客がいる。
この女店主に用があるのだ。十五年前に師匠に連れて来られたのが最初だが、この女はずっと変わらない。肌の色つやや張り、服を着ていても隠し切れない、その豊満な胸と尻。滲み出るどころではなく、節操なくまき散らされている色気も。
男の生き血を啜っているんじゃないかと、隼などは思っている。
「歳を考えなよ、千」
千は口を歪めて、余裕たっぷりに笑った。
「そんなこと言ってるから、若いだけのつまんない女に引っかかるんだよ」
身に覚えのある隼は、閉口する。
なんでこの女がそんなことを知っているかとは思わない。この女は何でも知っている。
例えば、敵の下っ端隠密が、純朴そうな可愛い田舎娘の相談に乗っているうちに、貴族の男との縁結びに利用されたとか。
可愛かったから、許しちゃったんだよなぁ。
関係ないことを思い出して、隼はしみじみしてしまった。身近に生涯をかけて重たい恋愛をしている人を見ているので、隼は明るく楽しく女の子と付き合いたいと思っている。
それがどうにも真面目に受け止めてもらえない、らしい。
「妖怪の情婦に言われたくないや」
隼が憎まれ口をたたくと、千はフッと鼻で笑った。
「あの人は若い女を抱くんじゃないよ。いい女しか抱かないんだよ」
そう言って張った胸が、はち切れそうに撓んだ。
「試してみるかい?」
首を傾げて誘うような目は妖艶だが、隼は「げぇ」と首を横に振った。
「やめとく。喰い殺されそう」
この女も十分妖怪だ。
本当に嫌そうな隼に、千は気を悪くすることもなく「アハハ」と笑った。
「あんたのそういうところは、好きだよ」
「で?」とカウンターに頬杖をつくと、隼に顔を近づけた。
「師匠のお使い?」
言いながら千は、「フフッ」笑いを漏らした。
「大公のことでしょ?」
この女に小細工はきかないだろうなと諦め、隼は頷く。
「崑じゃないよ」
千はあっさり言った。崑は四大氏族の筆頭で、その勢力は王族である全をも凌ぐ。
「そうか」と半ば拍子抜けした顔で頷く。こうあっさりだと、かえって真偽を見分けにくい。
「大きな勢力ばかり見てると、足を掬われるよ」
更に畳みかけた千の言葉に、隼は思わず顔を上げた。
「何か知っているのか?」
そう問うと、千は「はぁ」とため息をついた。
「あんたそんなんだから、師匠に怒られるんだよ」
千はカウンターから体を離すと、突き放すように告げた。
「こっから先を知りたいんなら、あんたじゃお話にならない。空を連れてきな」
師匠の名前を出されて、グッと詰まる。
彼は今、ガザにはいない。隠密の人間でもない。
「空がわたしの相手をしてくれるんなら、教えてやってもいいよ」
せせら笑う千に、隼は先ほど千の誘いを断ったことを後悔した。
「いや、俺が」と言いかけるのを、千は「フンッ」と鼻息で吹き飛ばした。
「あんたも言ってたじゃないか。わたしと寝て食い殺されなかったのは、翁と空だけだよ」
空はこの女とやったことがあるのか…と思った隼の顔を見て、千は鼻で笑った。
「あいつはね、姫さま以外の女には、どんな酷いことでもできるんだよ」
その言い方に、隼は「おやっ」と思った。
「姫さま」とは、空が長年片思いを拗らせている、ガザ帝国の王妃であろう。
千が空を好いているわけではない。だが今の「姫さま」の言い方には棘があった。そもそも、王妃凛様のことを、そんな風に呼ぶ人はこの国にはいない。
「千、あんた、凛様のこと嫌いなんだな」
敵としてではなく、人として。
千は一瞬、不意を突かれたような顔をしたが、すぐに口を歪めて笑った。
「ああ、嫌いだね。なんでも自分が引き受けますって聖女みたいな顔を見てると、ムカムカする」
まぁ、もと巫女姫だからな。隼が内心突っ込むのと同時に、千の顔は凶悪になっていた。
「全てを承知しているくせに、空を飼い殺しにしていることにも腹が立つ」
それは空が望んだことだからだ。
千もそんなことは知っているだろう。それでも腹が立つのだ。
隼もそれには同意見だった。
「だから大丈夫よ」
打って変わって、千は甘い声を出した。
「空はちゃんとわたしの所に来るわ」
そうなるだろうなと思いながら、隼は店を後にした。後味の悪さが隼の胃をムカムカさせていた。




