Ⅱ 蠢動 ー1
数週間前に死にかけたあの山道も、ナルと一緒だったら、どうということはなかった。
ナルは耳が聞こえないせいか、他の感覚は人より鋭敏だし、身体も身軽だ。
道がなさそうなところでも、歩きやすいところを瞬時に見極めてくれ、少しは山道に慣れたとはいえ、まだ足元がおぼつかないターシャを、何度も支えてくれた。
……ユースティス
ナルが「テス様」と呼ぶのは、ターシャの婚約者のことだ。
つい先日キースが行方不明だと告げてきた、ユースティス・サボンである。
ナルはユースティスの従者であった。
正確な歳は知らないが、恐らくターシャと同じくらいか、少し下であろう。ターシャが十歳でユースティスの婚約者になった時から、ナルはユースティスの傍らにいた。
どうやらナルは、ユースティスが毛嫌いする彼の父親であるラウル・サボンからの悪趣味な贈り物だったらしいが、父親からのプレゼントを全て拒否するユースティスには珍しく、贈り物であるナルを気に入り、連れて帰ったという経緯がある。
もちろん、ターシャはユースティスのもとに一刻も早く行きたかったが、蘭や陽に無断というわけにはいかない。
彼らもターシャたちの為に尽力してくれている。
「待って、戻って、蘭に言ってくるわ」
ターシャも指文字は作れたが、それももどかしく、強引にナルを振り向かせてそう訴えると、ナルは激しく首を横に振った。
強い目でターシャを見つめたまま、素早く指文字を作った。
『蘭を信じてはダメ』
本来なら、いくら昔から知っているナルの言葉でも、ターシャは歯牙にもかけなかっただろう。
蘭の名は母が命をかけて伝えたと言ってもいいものだったし、ターシャも初めて会った時から、蘭には全信頼を寄せていた。
だが、おそらく、ターシャの中で少しずつ、不信の芽のようなものが根を下ろしていたのだろう。大きな原因はないが、小石か砂利程度の不満が、引っかかっては溜まっていた。
ターシャはナルの言葉を聞いて、蘭や陽の許に走るのを止めてしまった。ナルが必死につかんでいる手を、振りほどくことが出来なかった。
二人はそのまま、村の方には戻らず、針森の中に入った。そこから街道の方に抜けることができるらしい。つまりターシャは、死ぬ思いで逃げて来た道を元に戻ることになる。
ターシャは、夕から借りたはなまつりの衣装を着ていた。身軽とは言えなかったが、最初にこの村にたどり着いた時に着ていた、ユースティスから贈られたドレスよりは、断然動きやすい。
このまま村を出てしまえば、夕にこの衣装を返すことはできないだろう。それが少し後ろめたかった。
ターシャは前を行くナルを見つめた。今日は月が明るいのか、はなまつりの明かりが届かなくなっても、ナルの背中がぼんやりと見えている。ターシャはその背中を見失わないように、ほとんど引っ付くようにナルの後ろについていた。
耳が聞こえないナルには、後ろから話しかけるわけにはいかない。
どこに行くつもりなのか、ユースティスはどんな状況なのか、訊きたいことは山ほどあるが、朝が来るまではお預けだ。お互いの唇や指の動きを見るには、夜の森は暗かった。
もどかしい気持ちを抱えながら、黙ってナルの後ろをついていくしかなかった。
ナルの足取りに迷いはない。
もしかして、この森を通ったことがあるのだろうか。
そう思いかけたところで視界が開けた。
ああ、やっぱり、月が明るい。
ターシャは中空に浮かぶ月を見て、眩しくもないのに、目を眇めた。
月は気味が悪いほど光っていて、模様まで見えてしまいそうなほど大きく感じた。




