1 幻の村 ー16
「キース!」
話をするために赴いた蘭の家の入り口をくぐった途端、そこにいた人物を見て、ターシャは思わず声を上げた。
キースと呼ばれた男は顔を綻ばせながらも、片膝をつき、頭を垂れて臣下の礼をとった。
「公女様!よくご無事で」
織物問屋の主として、公舎に出入りしているこの男は、父大公とも旧知らしく、親密な仲だ。
針森について、いろいろと教えてくれたのもこの男である。
だが、公国から身を隠している自分を、こんなに早く見つけるのが彼だとは、思いもよらなかった。
同時にぞっとする。キースが見つけられたということは、絶対に見つからないと思ったこの場所は、安全ではないということになる。
「よくここにいると分かったわね」
ターシャの声に、警戒心が滲んだのを感じ取って、キースは言い聞かせるように、ゆっくりと言った。
「わたしはあなたを見つけられたわけではないですよ。ただ、蘭とはアラン様より古い仲なんです」
キースが躊躇うことなく、「蘭」と呼び捨てに、しかも完璧な発音で呼ぶのを聞いて、ターシャは目を丸くした。
それを見て、キースは気安い様子で笑った。
「もともと針森の村には、よく買い付けに来るんです。それこそ、まだ親父が生きている時からだから、もう二十年にはなりますね。この村は別に隠された秘密の村じゃない。意外に交易は盛んですよ」
「ああ、でも」と付け加える。
「ラン様が長年死んだふりができるんだから、あなたが隠れるには、心配ないでしょう」
穏やかに話し続けるキースに、ターシャは胸をなでおろした。やはり気が張っていたのだろう。見知った顔に再会して、ほっとしたのが自分でも分かる。それにキースはターシャにとって、親戚の叔父さんのような存在だった。実の叔父とは、父親との関係を思うと、温かい交流など望むべくもない。親戚など、一番警戒しなければならない存在だ。
幼い頃、キースの胡坐の上に座り込むと、すっぽりと納まって、得も言われぬ安心と幸福を感じたことを覚えている。実の父であるアランに対しては、そんなことはできないのに、随分無理を言ったものだ。キースは大抵なんでも言うことを聞いてくれた。
ターシャがキースの足の上に、長時間乗っていたせいで、キースは帰る際、足がしびれて立てなかった。
「ターシャ様」
一転して緊張したキースの声に、ターシャは我に返った。昔を懐かしんでいる場合ではない。蘭は何と言ったか。
キースはなるべく冷静に話そうとしているようだが、誰の耳にも彼の声が震えているのが分かった。
「アラン様のガザへの謀反に対し、公国は大公と一部の国軍過激派の犯行とし、大公の爵位と権限をはく奪。ガザへの陳謝の証として、大公の首と、ドムの町のガザへの移譲を約束したとのことです」
ターシャの手足がスーッと氷のように冷たくなった。
何と言った?大公の首?
言葉が耳に入っても、理解ができない。
「父上は見つかったということ?」
独り言のようにターシャが呟く。ターシャと母が一報を受けた時は、父の行方は分からないとのことだった。
当然の疑問に、だがキースは首を横に振った。
「それは分かりません。わたしが調べた限りは、アラン様の姿を見た者がいないのです。もちろん、極秘の場所に幽閉されている可能性はありますが」
ターシャが噛みしめた奥歯が、ギリギリとこすれて音を鳴らした。
「だれが、そんなことを……」
ターシャは、喘ぐようにそう問い質した。
アウローラ公国は、大公と名乗っていても、実質アウローラ大公が君主の君主国家だ。
彼が仮に罪を犯したとしても、誰かが大公を勝手に裁くことはできない。もしできるとすれば、公国として自分の配下に従えているガザ帝国だろう。
「陸軍大将閣下です」
ターシャは息を呑んだ。
陸軍大将ハヌス。アランの父王から仕えた忠臣だ。若い頃は血の気が多かったらしいが、波乱の時代を大公の傍らで支え、今では穏やかな賢将として、兵たちからの信頼も厚かった。
確かに全てにおいて、父アランの政策に賛同していたわけではないが、それでもアランを信じ、仕えていた。
ターシャは目尻に皴を寄せて穏やかに笑う、ハヌスの顔を思い浮かべていた。
彼が?まさか…
「閣下の後ろには恐らく……」
続けるキースの声に滲む決死の響きに、ターシャは吸い寄せられるように目を向けた。
「ラウル・サボンがいると思われます」
パチン。
ターシャの頭にラウルが手を叩く音が聞こえた。
「母上は?お姉さまは?」
やっとの思いでそう訊ねると、キースの眉尻がぐっと下がった。
「大公妃さまは捕らえられ、幽閉されておられるとのこと。ミア様は、御夫君のコーネリアス公が守っておられるとのことです」
では、二人とも生きてはいるのだ。
ターシャはこの部屋に入って、初めて息を吐いた。自然と目線を床に落とす。
「ターシャ様」
キースがもう一度呼んだので、ターシャは顔を上げた。
「ユースティス様の姿が見当たらないのです」




