Ⅰ 幻の村 ー10
表面的には穏やかな日々が過ぎていった。
ターシャと陽の相性は悪くないようで、兄妹のように、時たま軽い口喧嘩をしながらも、杏は陽の言うことをよく聞き、薬師の雑務をこなしていた。
確かにトチの実を洗うのに、昼間のぬるい水よりは、朝一番の冷たい水の方が、実の張り具合が良いことは分かったし、薬草を干すには、大きな束を作るより、面倒でも小さな束をたくさん作った方が、均等に乾燥させられる。葉をうまい具合に広げるコツも、いつの間にか身についていた。
理解できれば、ターシャは面倒な作業を嫌だとは思わなくなった。必要なことはやるべきだ。
心は相変わらず重たかったが、薬師の作業にも慣れ、村の素朴な暮らしもいいものだと思えてきた。
「おいしい」
杏の口から思わず漏れた言葉を聞いて、陽はニヤリと口元を歪めた。口の周りにたれをいっぱいつけた杏の顔を見て吹き出し、自分が持っていたあぶり鳥を皿に置き、本格的に笑い出した。
杏はポカンと陽の顔を見ていたが、あまりに陽が笑うので、馬鹿にされたのかと顔を険しくした。
「何がそんなに可笑しいのよ。美味しいから、美味しいって言ったんじゃない」
そうだろう。
杏は炙った鳥を齧るなんて、きっと初めてに違いない。アツアツのあの鳥肉に歯をたてて、パリッとした皮の下から溢れてくる肉汁で、舌を火傷しそうになったことなどないだろう。
そう思ったから、今日のまかない所での献立はあぶり鳥だろうと聞いて、わざわざやってきたのだ。
予想通りだった。いや、予想以上だ。手で鳥肉を掴み、かぶりついたことがない杏は、口の開け具合が分からなかったらしく、口の周りに、あぶり鳥に纏われていた甘辛いたれをいっぱいつけていた。
笑いながら指さして指摘すると、杏はやっと口の周りのベトベトに気が付いたらしく、「やだ、なにこれ」と拭おうとして手もべたべたにしていた。
「やあ、久しぶりだね、陽」
「ああ、洋。こんばんは」
声をかけられて陽が見上げると、まかない所の頭、洋がにこにこ笑顔で立っていた。
針森の村では各家で食事をつくらない。朝と夜の二食が、まかない所で一手に作られる。食事を作ることを生業としているまかない師たちが中心となり、まだ生業の修行が始まっていない十六歳以下の子どもたちが、当番制で手伝って食事が作られる。
陽も薬師の修行が始まるまでは、まかない所で料理を手伝っていたし、朝晩まかない所で食べていた。
ただ、薬師になってからは、薬師の小屋がまかない所から離れた森の奥にあるので、小屋で自炊することが多くなった。たまにまかない所に寄って、干し肉やチェ(雑穀を砕いて水で伸ばした生地を、焼く前に干したもの。砕いて煮る)などの保存食を貰って帰り、野草や実、キノコを採って、一緒に料理する。
食材に対する知識も料理の腕も、子どもの頃鍛えられたから、不自由はしていないが、やはり、たまにはまかない所で食べたくなる。特に、こんなあぶり鳥はここでしか食べられない。
このまかない所には、つい先年まで、永遠に生きているのではないかと思われていた、朔婆というまかない師が、頭を張っていた。この村の人間は、みんなが朔婆の許でしごかれ、喰わせてもらい、育っていったと言っても過言ではない。
おかげで彼女の孫である洋は、蘭よりも年上なのに、いつまでたっても朔の弟子のような存在だった。洋自身もそれに不満があるようではなく、いつもにこにこと朔の言うことを素直に聞いていた。
朔婆はいつも一番早く起き、まかない所に姿を現していた。それがある朝、現れなかった。他のまかない師や、当番で手伝いに来ていた子どもたちは、動揺した。朔婆がいなくなってしまったら、いったい誰がこの大所帯を切り回すのか。
だが、洋は変わらぬ様子でこう告げた。「朔婆はもう起きて来ない。これからは僕の指示に従ってほしい」と。それから、いつもと変わらぬ朝食の準備が進められた。
朔婆の死が告げられたのは、皆の朝食が終わってからだった。




