幕間:くつのおはなし 後編(カイル視点)
雨が上がってしばらく経った日、今日も勉強机で朝を迎える。鳥が歌い、木漏れ日がそっと部屋に差し込み始める中、俺はため息をついた。
徹夜を常時続けるのはさすがに厳しく、最近は夜に数時間眠って、暗い中起きだし何時間かを予習復習に使うことにしていた。明るいランプの光だけを頼りに、読み進める分厚い学術書。なんとしてもあいつに負けたくなかった。
だが、授業でも実技でも、いまだ彼女に勝てたことはなかった。ため息の大きな原因は、これだ。
だが、彼女はごくまれに、俺に親切だった。教師から宿題として課せられた難問を前にして真剣に悩んでいるときに、そっと糸口になりそうな分析が載っている書物の情報をくれたこともあった。膨大な蔵書のある図書室の鍵を融通し、自由に使えるよう取り計らってくれたのが彼女だったと、これも後で知った。
考え込んで、ふいに思い至る。俺が努力していることに、誰より注目しているのは彼女なのかもしれない。
だがなぜなのか。全く理由がわからず、俺は考えるのをやめた。一歳しか変わらないというのに、彼女は姉として振舞おうと気を張っているのかもしれなかった。
自室で軽い朝食を急いで済ませ、剣の稽古をこなした後、擦れた石床の上を小走りに教室へと向かう。
今日習う古代史の教師は、屋敷の片隅にある重厚な石造りの小部屋が気に入りだった。長い歴史を持つヴェルフレアの屋敷では、増改築が繰り返されており、今日使う一室はそのなかでも古い場所にあった。思っていたよりも余裕で間に合い、ほっと息をついて着席する。シェーラはまだ来ていない。
いつもと違う音がする。廊下から、靴音がカツカツと近づいてくるのが聞こえた。席に座ったまま扉に目を向けると、白い手でドアノブを握った彼女と目が合う。違和感の正体はすぐに分かった。
靴だ。濃紺のドレスの裾から覗く、小さな色白の足首。ほっそりしたその優美な足先は、新しい靴に続いていた。赤い靴。シルクを基調とし、大粒の宝石のような装飾が施されたその靴は、まだ12歳の彼女にふさわしくないほど、高いヒールだ。
全く姿勢を崩さないまま、彼女はきれいに歩いて横の席に優美に座った。あんなに高いヒールを初めて履いたなら、普通はよろけるだろうに。まったく苦にしていない彼女の身体能力に内心舌を巻いた。
その日の授業でも、散々だった。寝不足がたたったのか、内容を瞬時に思い出せず答えに窮した俺の後、教師はシェーラに答えるよう促し、シェーラは相変わらず淀みなく完璧に答えて見せた。
授業の後、憤然と立ちながらシェーラを見る。彼女もさっと立ち上がり、書物を鞄に直し始めたところだった。
ふいに気づく。シェーラのほうが、少し俺より目線が高い。その瞳は、昨日まで同じ高さにあったのに。シェーラの涼しい表情が気に障り、俺は思わず彼女に向かって声を出した。
「踵の高い靴を履いたってお前の背が伸びた訳じゃない、調子に乗って見下すな」
吐き捨てたその言葉は、意図していたよりずっと冷たく残酷に聞こえた。シェーラは珍しく不愉快そうに、その美しい顔をそっとゆがめた。
俺は内心、焦りが募ったが、シェーラはそんな俺にかまわずにすっと退室していった。靴音が遠ざかっていく。すでに後悔していたが、謝るのはプライドが許さなかった。
その後、一週間がたっても、シェーラと俺は仲違いしたままだった。前までも、温かい態度ではなかったが、たまに姉らしく接してくれたものを。シェーラは完全に俺を無視していたし、話しかけることがためらわれ、俺も結局まともに謝れていなかった。
部屋で積まれた学術書を前に、いつも通り読み込もうとするが集中できない。椅子で項垂れていると、ノエルがやってきた。苦笑がその顔には浮かんでいる。
「気分転換に街へ出かけませんか」
彼は珍しくそう持ち掛けた。ヴェルフレア領は商業も活発で、街の視察もきっと勉強になりますよ。そう続ける彼の声は、勉強の一環だと強調していたが、俺への気遣いがにじんでいた。肩に入った力が少し抜ける。
「そうだな、たまには外へ行こう」
承諾すると、彼は機嫌よく俺の外出着を用意し始めた。こいつも街へ行きたかったのか、と悟ったが胡乱な目で見るだけにとどめた。せっかくの好意を無にしたくなかったし、それにこの屋敷の居心地がいいとはお世辞にも言えない。
母の実家であるローゼンタール領は王都との通行の要所、華やかな商業地として有名だった。だが、街へ出て目を見張る。ヴェルフレアの紋章がいたるところに掲げられていた。
商業都市から来た俺の目から見ても、ヴェルフレア領は劣ってはいなかった。ここは辺境のはずなのに、街は人がごった返し、堅牢な石造りを基盤として、優雅なアーチを描いたガラス窓が特徴のヴェルフレアの街並みが広がっていた。硬度が高いガラスは特産品だと聞いてはいたが、街のショーウィンドウはどうだ。ローゼンタールでも目にしたことがないほど、大きく豪奢なガラスを惜しみなく使った店構えが並び、中の商品をますます魅力的に見せている。
圧倒されながら歩いていたが、ふいにある店の前で立ち止まる。
「坊ちゃま、どうされました」
後から付き従うノエルが、いぶかしげに声をかけてくる。ガラス窓の中には、真珠が襟やベルトの布部分に丹念に縫い付けられた、見るからに最高級とわかる暗い赤のベルベットを基調としたドレス。それを着せられた女の等身大の人形は、客を歓迎するかのように優雅に軽く腰を折っている。右手でショーウィンドウのなかを指し示しているのは、展示されている化粧品だ。
「そこで待ってろ」
意を決して、俺は扉を開けた。後ろのノエルのぽかんとした表情がショーウィンドウに映っているが、恥を捨てて見ないふりをする。
「いらっしゃいませ」
店内は、嗅いだことがないほど濃密な匂いが充満していた。不愉快な匂いではないが、香水が多種入り混じったような匂いだ。店内はわざとランプの照明で明るさが抑えられ、黒を基調とした家具の上に紫のベルベットが敷かれ、ずらりと華やかな女物の小物が並んでいた。
店内は若いめかした女が大勢いて、場違いさに気後れする。思わず後ずさって逃げたくなる。
「どういった品をご所望でしょうか」
じりじりと出入口に近づいた俺に店員が、まるで挙動に合わせたように言葉をかけてくる。焦ったが、同時に気づいた。俺の服装を見て、貴族階級だと見抜いて客を逃すまいとしているのだ。
いや、人への贈り物で、そうまごつく俺に、店員は安心させるように笑いかけた。汗が背中を伝って熱いほどだ。ああ、今すぐ逃げ出したい。剣術の訓練で膝を痛めて、無理して稽古したあの日の激痛や、シェーラに完璧と思った回答の上を、むざむざと出されて敗北感を嚙み締めたあの日の方がよほど楽だった。
顔から火が出そうな中、俺は何とか買い物を終え、満身創痍で店を出た。
「お帰りなさいませ」
訳知り顔のノエルに、ますます苛立ちが深まったが、笑ったり揶揄わないところが彼らしく、苛立ちと同時に羞恥で消え入りたい俺にとってはありがたかった。
次の日、授業の後。俺を無視したまま通り過ぎようとするシェーラを、話があると呼び止めた。シェーラは久しぶりに俺を見る。いつも静かで波立たない目は、不機嫌な光を宿して俺を見つめた。
居心地が悪く、のどがからからに乾く。だが、あの店内よりよほどましだ。そう言い聞かせて、俺は荷物から贈り物を彼女に突き出した。
「これをやる。…どうせそんな靴を履くなら、靴だけじゃなくもっと女らしくしろ」
きちんと渡したかったが、つっかえながらの声が精いっぱいだった。突き出した手が思わず少し震える、受け取ってもらえるだろうか。
シェーラの表情はあまり動いていないが、小さく唇が開いて少し固まった。驚かせたか、と後悔に包まれたが、彼女はそっと俺の手から包みを受け取った。
ゆっくりと包みを開け、出てきた華やかな化粧品に、思わずという感じで微笑んだ。
「ありがとう、大切に使うね」
そう珍しく、明るい笑顔を浮かべる彼女。
俺は久方ぶりの安堵感に包まれていた。とにかく、彼女と仲直りはできたらしい。
「…本当は、この靴を履くのは理由があるの」
小さくささやく彼女。まるで秘密を打ち明けるかのように。思わず彼女の唇を見つめた。柔らかく、いつも行儀のいい赤い唇。
「私のお母様は、背の高い、美しい方なの。だからこの靴を履くとね。…お母様みたいで、素敵でしょう」
そう続ける彼女は、優しく微笑んでいた。そっと秘密を分かち合う俺に向かって。
その笑顔は、初めて年相応の少女に見えた。




