幕間:くつのおはなし 中編(カイル視点)
目を擦りながら、魔術学の教科書を机に置いた。大きな半円状の優美な窓に面した勉強机。両脇に山のように積まれた学術書に、思わずうんざりと息が漏れる。まだまだ読み込まなくてはならないのに、窓の外の様子はもう朝だった。
雨の音が聞こえる。窓についた雫を恨めしそうに見やった。後で剣の稽古もしたいのに、これでは地面が泥でぬかるむだろう。
装飾が施されたガラス窓、象牙色のざらついた固い壁面。重厚な木製の扉。部屋の中の家具は機能的だったが、同時に最高の職人が仕上げた逸品だと一目で分かった。使われている木材や、細かな装飾から読み取れるものばかりだったから。
赤龍に呪われた不気味な屋敷、そう想像していたのとは違っていた、外側だけは。
屋敷はとても優美で荘厳だった。森林が近いだけに自然も多い。だが、箱だけの話だ。中に住む人間は、俺たち母子を無視する赤龍の元夫と、自領の利益しか考えない強欲な領主、そしてあの赤龍の娘シェーラ…
彼女のことを考えそうになり、頭を振って気を紛らわせる。だがその冷えた顔立ちは、俺の脳裏に焼き付いて離れなかった。
快活なノックが響く。入れ、と声をかけると、現れたのは側仕えのノエルだった。
「坊ちゃま、おはようございます」
いつも通り、笑みを浮かべて彼が言った。ノエルは実家から輿入れする俺たちに同行してくれた従者だ。赤龍がいた屋敷への輿入れだというのに、彼はそれを聞いても眉を少し動かしただけだった。礼をして、私もお供します、と迷わず申し出てくれた彼だけが、この屋敷で唯一信頼できる友人でもあった。
「稽古場に行く。お前も付き合うか?」
洋服箪笥に近づき、適当に着替えを探しながら俺がそう言うと、彼は私が?まさかと答えて苦笑した。相変わらず実技はからきし苦手のようだ。
「ずいぶん根を詰めて勉強しておいでですね」
机の上に散らばった書物や、今立ち上がったばかりの角度で佇む椅子を見て彼は眉根を寄せて言った。
黙ったまま用意を進め、さっさと部屋を出た。小言を言われている暇はない。
雨は止む気配がない。膝まで泥だらけにしながら、俺は指南役に稽古をつけてもらっていた。実家ではもともと、剣術のほかに格闘技や弓術、棒術なども学んでいた経験があり、実技には自信があった。だが、この間――シェーラと初めて剣術でも一緒になったとき、実力差に開いた口がふさがらなかった。
直接打ち合いまではしなかったものの、型を教えられてすぐに、彼女は鮮やかに指南役から一本取って見せたのだった。指南役は慣れているのか、またですかお嬢様。私は騎士団を解任されてしまいますよ、などと冗談を飛ばす始末。
指南役は、確か精強と名高いヴェルフレア部隊で一、二を争う実力者だ。それを、軽々と。後継者としての立場以前に、シェーラの前では女性に実技で敗北しているという現実に打ちのめされた。
雨の中、もう一本お願いします、と指南役に頼み込む。負けられなかった。
剣術の訓練の後に、息つぐ間もなく授業が始まる。扉を開けて室内に入ると、シェーラはもう着席していた。こちらを見もせず、本に没頭している。
用意された席に座り、書物を準備しながら彼女の様子を垣間見る。ほっそりした白い指が優雅にページを繰り、下ろした黒髪が一束肩で艶めく。思わずどきりとした。
視線を外す。盗み見をとがめられても気まずい。シェーラのことを脳裏から追い出すように、俺は負けじと本を広げた。
授業が終わった後の談話室、俺は椅子に身を投げ出すように腰かけた。よく予習したつもりなのに、応答の精度でまたシェーラに負けた。
ぐっと唇を引き結ぶ。悔しかったが、前よりずっと手ごたえがあった。もっともっと勉強しなければ…
重厚な扉を引いて、彼女が入ってくる。彼女は俺を一瞥しながら、なぜか少し目を細めた。
侍女に何か言いつけた後、彼女が静かにこっちに近づいてくる。絨毯を踏みしめる彼女は靴音一つしなかった。
直後、後ろから何か、髪を撫でるような柔らかい力がかかった。
「なっ...何をする!!」
椅子から思わず飛び上がるようにして立ち上がり、彼女に向かって叫んだ。シェーラの手の中には、ブラシがある。あれで俺の髪を梳こうとしたのだ、と理解した瞬間、羞恥で顔が熱くなった。
「髪を整えなさい。寝癖がついているわ」
平然と、まるで子どもを相手にしているような口調でシェーラは言った。いや、実際に子ども扱いしているのだ、年下の義理の弟だから。
「嫌なら、自分で整えなさい。どうせマナーの授業でも習うわ」
シェーラが自然に差し出したブラシを、反射的に受け取ってしまう。子ども扱いするなと怒鳴りつけようとしたが、屈辱で言葉が出てこない。
シェーラを思いっきり睨みつけたあと、俺は観念してしぶしぶ部屋の隅にある鏡の前に行った。たしかに、教養がなく、マナーがなっていないと思われるのは心外だった。
胸の鼓動はまだ収まらない。ひどく動揺している自分に戸惑いつつ、髪を整えていく。ブラシが手の汗で少し滑り、俺は慌てて手の力を強めた。
鏡越しにそっと見るシェーラは、いつものように冷たい表情のまま、豪奢な長椅子に座ってくつろぎ始めた。侍女から茶器まで渡されている。
彼女に意識が向いて手の動きが鈍り、焦る。鏡の中のシェーラはいつも通りなのに、なぜか違って見えた。




