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幕間:くつのおはなし 前編(カイル視点)

その話を持ちかけられて、母は真っ青になって震えていた。

降って湧いた再婚話。母がやっと幸せになれると安心した俺は、話が進むにつれてそれどころではないと悟り、怒りのあまり立ち上がって叫んでいた。


「あんまりだ!母上は、幸せになるべきなんだ!なのにそんな...いくら次期領主とはいえ、化け物と結婚した男など!」

震えながら、母は棚から用意した薬瓶を一口、口に含んだ。中は確か純度の高い酒だ。着付け薬を口にしなければならないほど、母は追い詰められている。


「おまけに、龍が産んだ娘が屋敷にいるそうじゃないか!化け物の子供となんて、一緒に暮らせるわけがない!...母上、どうか考え直してください。俺がいます。きっとここでも、あなたを守ります」

必死で言い重ねる俺に、母は無理に笑って見せた。

「落ち着いて。私は大丈夫、少し驚いただけよ。

大丈夫、きっと新しい家族に馴染めるわ」

そう言う母の本心を俺はわかっていた。俺のためなのだ。決死の思いで再婚話を受けるのは、俺の立場を慮ってのことだ。

この話を受ければ、養子として認められた時、次期領主としての道も開けるかもしれない。赤龍が残した子供は、たしか女だったから。


悔しくて俯く。爪が食い込むほど、拳をギュッと握った。俺がもっと強ければ。大人であれば。母はこんな恐ろしい思いをせずに済むのに...

窓から注ぐ光も、歌う鳥の声も、いつも通りのどかなのに。ここが家なのに。悪夢のようだった。



隣の領地まで来て、馬車から降りると、召使たちに儀礼的に迎えられる。

「奥様、坊ちゃま。この度は長い旅だったことでしょう。屋敷でゆっくり疲れを癒してください」

老いた男。執事だろう彼は、いたわるような声音でそう言った。だが瞳には、どこか遠くを見ているような光があった。


こちらへ、と案内する彼に従い、屋敷へと向かう。

「ようこそ。我がヴェルフレア家へ」

白い大理石の玄関フロアで、黒髪の男がぶっきらぼうにそう言った。

彼が母の新しい夫、次期領主のエヴァンだ。現領主のたった一人の息子。赤龍に籠絡された男。

彼が俺たちを見る瞳は、心底冷え切っていた。夫に望まれて結婚した訳ではないのだと、母は悟り息を吐いた。


広い玄関フロアを抜けると、壮厳なホールに続いている。

俺たちの瞳が、一点に集中する。

赤。まるで紅玉のような。室内に入って視界が暗くなったと言うのに、その瞳の輝きだけは浮かび上がる。

黒髪は、それとはわからないほど、緩やかなウェーブを描いて腰まで垂れている。だがふと、黒ではないことに気づいた。光が当たって艶がでているが、その艶は白ではなく、赤だった。

抜けるように白い肌。化粧を全くしていないのに、どこまでも滑らかで、少し艶やかですらある。

なんて美しい少女だろう。まるで夢に出てくる精霊のようだ。


「シェーラ、この女性はリディアだ。この子はカイル、お前の弟になる」

新しい夫の冷たい声。家族なんて思ってもいない。


彼女はゆっくりと瞬きをする。目が離せない。

「よろしくお願いします」

彼女の声。初めて聞く音が、心を揺らしていく。

一歩も動けず、胸の鼓動だけがうるさいほど高まる中、俺は彼女を見ていた。


その夜の晩餐会も、散々だった。

王都への通行の要所であるローゼンタール領と取引できたことで、どれだけ商業が活発になるかと領主様は機嫌良く話している。俺は俯いて、フォークを握る指に力が入るのを感じた。

新しい父は、俺どころか母まで無視し、さっさと退室していく。

震える手で、ナプキンを掴む母。これほどひどい環境だとは思ってなかったのだろう。

母の様子をそっと伺いつつ、彼女に目を向けた。

美しい彼女。美しくて、人ではない、冷たい彼女。

彼女は視線を絡めず、さっと立ち上がると部屋から姿を消した。


越してきたばかりだと言うのに、慌ただしく勉学が始まった。領主様の好意で、彼女と同じ授業を受けることになっていた。

なんとしてでも、ここで成果を上げなければ。母の苦労に報いるのだ。

俺はそう決心して、授業へ挑んだ。自信はあったのだ、母の実家にいた時から、勉学では主席だった。武術も評価されていた。


だが、彼女...シェーラには全く歯が立たなかった。彼女は、ただ質問に的確に回答するだけではなく、学んだ内容を結びつけ、推測し、驚異的な精度で応えて見せた。

歴史の授業など、母国の戦歴だけではなく、背後にあった不作や隣国との商業的交流の断絶など、詳しく回答して見せていた。古い国だ。普通は各戦歴の年代を覚えるだけでも、やっとだと言うのに。なぜその背景まで丸ごと頭に入っているのか。


呆然と座り込んでいると、彼女が声をかけてきた。

「初めての授業だったのでしょう?とても立派にこなせていたわ」

優しい声音。俺に初めてこの家でかけられた、彼女の温かい言葉。


途端に、胸が痛んだ。思わず立ち上がる。俺はなんとしてでも、この女に勝たなくてはならない。


「うるさい!お前みたいな奴に、分かってたまるか!」

そう叫ぶと、俺は怒りのあまり扉を荒く閉めて、自室へ向かった。

あんな奴に分かってたまるか。龍の娘。生まれながらの強者。立っているだけで、その余裕に飲み込まれる。


憤然と廊下を進む。険しい顔をしているのが自分でも分かったが、怒りを収める気はなかった。


背後で、規則正しい足音が遠ざかっていく。彼女の靴底が、石床を、淑女らしく、整然と打つ音だった。

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