かすむ記憶と光の少女⑨
――翌朝。
朝のホームルームが終わったばかりの教室は、いつもより少しだけ、浮ついたざわめきに包まれていた。
眠そうに机へ突っ伏す者。友人同士で昨日見た動画の話をする者。次の授業に向けて教科書をめくる者。いつもなら思い思いに過ごしているはずの時間だ。
だが、この日は少し違っていた。
教室中の関心が、ある男子の周囲へと集まっていたのだ。
「あ、あれ? どうしたの、みんな?」
そんな教室の異質な空気を察し、愛奈はきょろきょろとあたりを見回した。
「愛奈っちは教室に来るのぎりぎりだったから、朝の話は聞いてなかったかー」
「……愛奈はどんな時でも平和だな……」
「どうやら松丘さんが不思議な体験をされたとかで、皆さん気になっているようなんです」
愛奈の机の近くに集まっていた響華、伊吹、雫の三人が、それぞれ答えてくれる。
「ええっ、松丘が!? なんの話をしていたのっ!?」
(まさか、昨日の話!? 『ピュリステラ・ハーティアの正体は朝丘だったんだーっ!』とか言ってたりする!? 認識阻害があるから大丈夫だよね?……大丈夫だよねーっ!)
愛奈は思わず勢いよく立ち上がった。三人の顔を順番に見渡しながら、少しでも早く話の内容を聞き出そうとする。
「松丘も教室来るの結構遅かったし、詳しい話はこれからっぽいよ~」
「……松丘の、おそらくくだらない話に乞うご期待……」
教室の空気は徐々に温まっている。だが、響華と伊吹はどこか冷めた視線で松丘の方を見ていた。
「愛奈ちゃんは、松丘さんのお話が気になりますか? それでしたら、一緒に聞いてみましょうか」
「え? あ、うん……」
愛奈が目を見開いて松丘の方を見つめていたせいか、雫に気を遣われてしまったらしい。
行きたいような、行きたくないような。
聞きたいような、聞きたくないような。
そんな複雑な気持ちを抱えたまま、愛奈は雫に促され、松丘の近くへと向かっていった。
「昨日の夜、俺はとんでもない体験をした」
松丘駿平は、妙に重々しい声でそう切り出した。
「なんだー? 彼女でもできたのかー?」
「松丘に限って、それはねーな」
「どちらかというと、女子に騙される方だろ」
「電車で漏らしたんじゃね? うわっ、汚ねっ!」
「電車なら痴漢逮捕に出くわしたとか、どうよ?」
松丘の周りにいた男子たちが、本人そっちのけでどうでもいい予想を立て始める。
「うるさい! 真面目に聞けーっ!」
松丘は机に手を置き、ぐっと身を乗り出した。その表情は真剣そのものだった。冗談を言っている顔ではない。
「まさか補導されたとか?」
「金属バット持って夜道歩いてたら普通に怪しいもんな」
「昨日、野球道具買うとか息巻いてたから、あり得るな」
「ち、違う! 断じて違う! 金属バットは買ったが、夜道で振り回すなどするわけがっ……! ないであろう……」
松丘は強く否定しかけた。
だが、何か思い当たる節でもあったのか、語尾はみるみるうちに弱くなっていく。
「……なんで急に自信なくなってんだよ」
「おいおい、俺の予想が大当たりかよ!」
「振ってない! いや、そういうわけではないが……だが、それにも事情があってだな!」
再び話が脱線しかける。その流れを断ち切るように、松丘の友人である山下が口を挟んだ。
「それで? そのとんでもない体験って何だよ」
「おお、そうだ!」
松丘ははっとしたように顔を上げた。そして、教室中に響くほどの声で言い放つ。
「実は……俺は昨日、怪物に襲われたのだ!」
その言葉は教室中に響き渡り――そして、静まり返った。
(やっぱり、昨日の話だーっ! 松丘はどこまで覚えているのっ! 気になる~! だけど、この教室の空気の中で、わたしが聞き出したら変だよねっ! どうしよ~!)
固まったように静まり返る教室の中、愛奈だけは内心大いに焦っていた。その焦りが表に出てきてしまい、無意識に机を揺らしてしまった。
ガタッ――ほんの小さな音だった。けれど、固まっていた教室の空気を動かすには、それで十分だった。
「あわわっ! な、なんでもないよっ! 大丈夫だよっ! それより、松丘! ほらっ、続きを早く!」
教室中の注目を集めてしまった愛奈。慌てて注目の的を松丘になすりつける。
「おお! そう、怪物に……!」
「いや、怪物ってなんだよ!」
「んだよ、ゲームかなんかの話か?」
「おいおい、真面目に聞いて損したわ……」
話し始めようとした瞬間、教室のあちこちから困惑と笑いを含んだ声が漏れる。
松丘はそれらの反応を真正面から受け止めるように、ぐっと拳を握った。
「信じられんのも無理はない! 俺自身、今でも夢だったのではないかと思わんでもない! だが……あれは夢ではない。俺は確かに見たのだ。人の消えた街を……明かりの失われた駅前を……!」
松丘の声は、教室のざわめきを押しのけるほど真剣だった。
愛奈はその話を聞きながら、机の端をぎゅっと掴んでいた。
(魔結界の中……覚えてるんだ……!)
正直、もっとぼんやりしていると思っていた。
魔結界の中の出来事は、普通の人間には曖昧にしか残らない。特に大きなケガなどをしていなければなおさらだ。リーフィラも、そう言っていた。
だが、松丘の口から出てくる言葉は、思ったよりも具体的だった。
「人の消えた街って、なにそれ。ホラー?」
「駅前って、どこの?」
「お前、昨日スポーツ用品店行くって言ってたよな」
「ああ。普段降りない駅だ。そこに行った帰りだった」
松丘は深くうなずいた。
「最初は、ただの停電かと思った。だが違った。スマホは圏外になり、画面も真っ黒になった。周囲にいたはずの人々は消え、街は冷え切った空気で満たされていた。まるで、現実の裏側に落とされたかのようだった」
「おお……」
「ずいぶん凝った設定だな」
「なんか急にそれっぽいぞ」
「松丘って、そんな語彙あったっけ?」
「失礼な!」
松丘は一瞬だけむっとしたが、すぐに真剣な顔に戻る。
「その暗い街で、俺は悲鳴を聞いた。助けを求める声だ。俺は……正直に言えば怖かった。足も震えていた。だが、そのまま逃げるわけにはいかなかった」
周囲の男子たちが、少しだけ静かになる。
茶化す声が弱まった。
松丘の表情が、いつもの大げさなそれではなく、本当に恐怖を思い出しているものだったからだ。
「それで行ったのか?」
「ああ。金属バットを持ってな」
「やっぱ振り回してんじゃねえか」
「事情があったと言っているだろう!」
松丘の反論に、周囲から小さな笑いが起きる。
「そこで俺は見たのだ。女性を襲おうとしている巨大なヘビの怪物……〝スネーギー〟を――!」
「ヘビギーだってば! あっ……」
反射的に口を挟んでしまった瞬間、愛奈は固まった。
ヘビ型の侵魔の名前。リーフィラからは何度も訂正を受けた。だが構わず〝ヘビギー〟呼びを貫き通した。
それをここでも通してしまった。こんなところで、貫き通してしまった。
「……なんで愛奈が怪物の名前にツッコむの……?」
教室中の誰もが思ったであろう疑問を、伊吹が代表して口にした。
「だ、だって! ヘビの怪物って言うから、ヘビギーかなって! スネーギーって……! ほら、なんのことだか分かりにくいじゃん!」
「ヘビは英語で〝Snake〟ですよ、愛奈ちゃん……」
「……愛奈は簡単な英単語も知らないようだ。今度のテスト、赤点満点間違いなし……」
「ヘビだからヘビギーって安直すぎるっしょ! 愛奈っちのネーミングセンスは可愛いなぁ!」
苦笑、冷笑、爆笑――愛奈の必死の言い訳は、三種の笑みに包囲された。
「ししし、知ってるよ! ヘビは英語で〝Snake〟って……それくらい知ってるもん!」
だが、今の愛奈はへこたれない。〝Snake〟という英単語は昨日、脳裏に焼き付けたのだから。
「じゃあ、なんでツッコんだの? まさか、怪物を知ってるってわけじゃないっしょ?」
「うぐぅ!……か、怪物は……知らないよ……」
〝昨日、その怪物と戦いました〟などと言うわけにもいかず、今度は響華に迎撃される。
「……下手な言い訳見苦しい。さっきの発言、英語を知らない以外、考えられん……」
「ふぐぅ!……そ、そんなこと……ないし……」
必死に考えを巡らせるが、それらしい言い訳は思いつかず、続いて伊吹に追撃される。
「愛奈ちゃん」
「雫ちゃん!」
言いよどむ愛奈に、雫がふわりと優しく微笑みかける。
愛奈はそこに一筋の光を見いだし――
「今度一緒に、英語の勉強しましょうね!」
「雫ちゃーんっ!」
最後は雫に撃沈された。




