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かすむ記憶と光の少女⑧

「あ、あの~っ!」

「ぷにぷにぷに~……あっ!」

『ニャハハッ!……うニャ?』


 オカフグとじゃれ合っていたピュリステラ・ハーティアの背後から、松丘がおずおずと声をかけてきた。

 その声を聞いた瞬間、ピュリステラ・ハーティアの肩がぴくりと跳ねる。


 まさか、今のやり取りを見られていたのだろうか。いや、見られていたに違いない。頼れるヒロインらしく敵を倒した直後に、黒猫のぬいぐるみの肉球をぷにぷにしていたところを。


 ピュリステラ・ハーティアは、オカフグの前足を掴んだまま固まった。


「あのヘビの怪物を倒していただき、ありがとうございました!」

「い、いえいえ~! わたしにかかれば大したことないですよっ! 困っている人を助けるのが、わたしの役目ですからっ!」


 文句を言われるわけではないと分かり、ピュリステラ・ハーティアは慌てて振り返った。そして、いかにも余裕たっぷりといった感じの真面目な顔を作り、胸を張って答えた。

 もちろん、内心は少しだけほっとしていた。


「それで、あのヘビの怪物は他にはいないと……もう安全と考えていいでしょうか?」

「えっ……?」


 松丘は周囲を警戒するように見回しながら、慎重に問いかけてくる。

 一度逃げた先で再びスネーギーに追われる羽目になったのだ。不安になるのも当然だった。


「もういないよ。あれ? いないよね? いない……はず……」


 全部倒した。そう思っていたはずなのに、改めて確認されると急に自信がなくなってくる。

 余裕ぶった仮面はあっという間に剥がれ落ち、ピュリステラ・ハーティアはきょろきょろと辺りを見回してしまった。


「ええ、大丈夫よ。気配も感じないし、上から周囲を見回したけど、侵魔の姿はなかったわ」

「リーフィラ! よ、よかったぁ」

「おおっ! 本当ですかっ!」


 頭上から聞こえた声にそろって上を向き、そろって肩の力を抜いた。


「あー……えーっとぉ……」


 またしても警戒を忘れてしまっていたことに気づき、ピュリステラ・ハーティアは気まずそうに視線を逸らした。


「ま、周囲の警戒くらいは私の方でやっておくわ。それより、ほら」


 リーフィラはそれ以上咎めなかった。軽く微笑むと、小さな手で前方を指し示す。

 その先には、スネーギーに追われていた中年の男性と若い女性がこちらへ歩いてきていた。





「大丈夫ですか? どこかケガしているところはありませんか?」


 ピュリステラ・ハーティアは、歩み寄ってきた二人に問いかける。

 多少息は切れており、顔色も決して良いとは言えない。だが、自分の足でこちらまで来られたところを見る限り、大きなケガはなさそうだった。


「おかげさまで……なんとか助かりましたわい……」

「も~ムリ……あのデカキモイヘビ、ほんとなんなの……。てか、もう大丈夫なの……?」


 中年の男性は重たげな身体を上下させながら、若い女性は半泣きになりながら、それぞれ答えた。


「はい! もう大丈夫です! あの危険な侵魔、〝ヘビギー〟は全部やっつけましたから!」

『スネーギーだニャ……』

「聞きはしないでしょうけどね……」


 すかさずオカフグとリーフィラからツッコミが入る。しかし、ピュリステラ・ハーティアは聞こえなかったふりをした。


「と、とにかく! もう危ないものはいません! 安心してください!」


 胸を張り、精いっぱい頼れるヒロインらしい声を作る。その言葉に、中年の男性と若い女性はようやく少しだけ表情を緩めた。


「それは安心しましたわい。しっかし、どんな強面のお方が助けてくれたのかと思いきや、こない綺麗な方とは思いませんでしたわ」

「助けてくれてありがとうございます! すっごくかっこよかったです、お姉さん!」

「はうあぁっ!」


 二人から感謝と称賛の言葉を向けられた瞬間、ピュリステラ・ハーティアは衝撃を受けて固まった。


「大丈夫ですかっ!?――って、おや?」


 松丘が心配そうに声をかける。だが、その心配はすぐに杞憂に終わった。


「綺麗で……かっこよくて……お姉さん……ふっ、ふふふっ!」


 ピュリステラ・ハーティアは、ぽつりぽつりと今聞いた言葉を反芻する。

 その言葉は、彼女の中で都合よく膨らみ、眩しいほど甘美な響きへと変わっていった。


「綺麗でかっこよくて頼りがいがあって機転が利いてスレンダーで美人でお姉さんだなんてぇ……そんなっ、そんなことないですよぉ~」


 その顔は、緩み切っていた。

 途中から、明らかに自分が言ってほしい言葉まで混ざっていた。


「そこまでは言われてないわよ……」

『主の耳は一体どうニャっているニャ……』


 リーフィラとオカフグが、信じられないものを見るような目でピュリステラ・ハーティアを見つめる。


「もっと褒めてくれてもいいんですよ~!……って、二人とも変なこと言わないでよ!」


 気分良く褒め言葉に浸っていたところへ水を差され、ピュリステラ・ハーティアはリーフィラたちに向かって頬を膨らませた。


「今更だけど、妖精がいて黒猫のぬいぐるみが喋ってる……夢じゃないよね……?」

「ヘビの怪物、それと戦う不思議な格好の女性……まるで物語のようじゃわい……」


 若い女性と中年の男性は、ピュリステラ・ハーティアたちのやり取りを呆然と眺めていた。

 逃げ切った安心感と、目の前の非現実への混乱が、まだうまく噛み合っていないようだった。





「そ、それで! あなたたちは一体……何者なんですかっ!」


 先ほどの話を静かに聞いていたが、話が一段落したのを見計らって、松丘が意を決したように強く切り出した。


「あ、あのっ! わたしは、その……」


 ピュリステラ・ハーティアは一瞬迷った。名乗るべきか。それとも、名乗らないべきか。

 けれど、助けた人たちは皆、こちらを真っ直ぐに見つめている。何も言わずに去ることなど、今の彼女にはできなかった。


 深く息を吸う。

 胸の前で軽く拳を握り、精いっぱい背筋を伸ばした。


「わたしは――」


 言いかけた、その時だった。

 ぴしり、と。どこか遠くで、薄い硝子にひびが入るような音がした。


「……リーフィラ?」

「ええ。魔結界が崩れ始めているわ」


 リーフィラの声に、ピュリステラ・ハーティアは表情を少し和らげる。

 周囲の闇が、静かに揺らいでいる。


 冷たく張り詰めていた空気が、少しだけ軽くなる。

 消えていたビルの明かりが、遠くで一つ、また一つと瞬く。街灯の不気味な点滅が収まり、夜の街に本来の色が戻り始める。


「な、なんじゃ……? 景色が……」

「戻ってる……?」


 中年の男性と若い女性が、驚いたように周囲を見回す。松丘もまた、言葉を失ったまま立ち尽くしていた。

 街が、戻ってくる。人の気配も、車の音も、遠くのざわめきも。魔結界に奪われていた日常が、波のように少しずつ押し寄せてくる。


「……あなたは」


 松丘が、思わず一歩だけ前に出る。


「あなたのお名前を、教えてほしいっ!」


 ピュリステラ・ハーティアは振り返る。

 松丘の目は真剣だった。この非日常が終わることを察し、それでも、ただ終わらせたくない――そう強く目で訴えていた。


「えっと、わたしは……」


 ピュリステラ・ハーティアは少しだけ困ったように笑う。それから、胸に手を当てて、精いっぱい背筋を伸ばした。


「何してるの! 時間切れよ! 早く行くわよ!」

「ええっ!? ああっ、待ってよーっ!」


 遠ざかっていくリーフィラの声に、ピュリステラ・ハーティアは慌てて後を追う。

 足元から薄紅の光が広がり、魔結界の闇を押し流していく。


「あ、あのっ!」


 松丘が何かを言おうとする。けれど、その声は街に戻り始めたざわめきに溶けた。

 ピュリステラ・ハーティアは、最後にもう一度だけ松丘の方を見た。


「じゃ、じゃあねっ! また明日っ!」


 朗らかに、そう告げる。輝く笑顔で、手を振った。


「また、明日……?」


 松丘がその意味を問い返すより早く、桃色の光が強く瞬いた。

 魔結界の闇が弾け、世界が白く塗りつぶされていく。


 松丘の視界の中で、少女の姿が光に滲む。


 可憐な衣装。

 桜色の光剣。

 薄紅の残光。

 黒猫の弓士。

 小さな妖精。

 そして、輝く星のように笑う、光の少女。


 それらすべてが、眩しさの中で少しずつ輪郭を失っていく。


「待っ――」


 呼び止めようとした。

 けれど、声はうまく形にならなかった。


 淡い桃色の光が、夜をほどく。


 そして――世界は、元の姿を取り戻した。


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