かすむ記憶と光の少女⑦
ずるり、ずるりと湿った音が近づいてくる。
わざわざ確認するまでもない。少し前に幻影で足止めしていた二匹のスネーギーが、こちらへ迫ってきているのだ。
だが、ただ待つつもりはない。ピュリステラ・ハーティアたちもまた、スネーギーを迎え撃つために駆けていた。
「うわっ! オカフグ!?」
ピュリステラ・ハーティアの胸元で、抱えていた黒猫のぬいぐるみがもぞもぞと動き始めた。
『む~っ……ぷニャ! ふぅ。おいらをもうちっと丁寧に扱ってほしいところだニャ!』
「ああっ! ごめん~!」
恥ずかしさを誤魔化すためか、思ったよりも強く抱えてしまっていたようだ。
『まったく、主は胸が大きいのだから気を付けて欲しいニャ!』
オカフグの小さな肉球が、ぷにぷにと彼の主の大きなものを揺らす。
「んなぁっ!?」
まさかそんな直球で言われるとは思っていなかったのか、ピュリステラ・ハーティアは一瞬で顔を真っ赤にし、言葉を詰まらせた。
『そいじゃ、おいらはこの辺でっと!』
「あっ、ちょっとーっ! こらー、オカフグーっ!」
何か言われる前にとばかりに、オカフグはぽよんと胸元から飛び出した。
『ニャハハッ! おいらは弓使い。前衛である主と並んで戦うのはナンセンスってもんだニャ~!』
黒猫のぬいぐるみはふわふわと浮きながら徐々に離れていく。
「も~っ! 後で覚えておいてよねーっ!」
言っていることは正しい。だが、納得いかない気持ちは残る。
ピュリステラ・ハーティアはその感情を捨て台詞に変えて、遠ざかるオカフグへと思い切り投げつけた。
そんな軽口を交わしている間にも、闇の奥から現れた二匹のスネーギーの姿が視界に大きく映る。
ぬらりとした黒い鱗。街灯の残光を鈍く反射する巨体。先ほどまでと同じように、互いの腹を庇い合う二匹は、今度こそ獲物を逃がすまいとするかのように、低く身体をうねらせていた。
「ハーティア、後ろの人たちはまだ動けないわ! ここで止めるしかないわよ!」
「分かってる!」
リーフィラの言う通り、後方にはへたり込んだままの中年の男性と若い女性。そして、まだ息を整えきれていない松丘がいる。
彼らにはもう、走って逃げる体力はほとんど残っていない。もし再びスネーギーに襲われれば、今度こそ助からない可能性が高い。
だからこそ――ここで、確実に仕留めるしかない。
ピュリステラ・ハーティアは〝星光の剣〟を握り直し、まっすぐに二匹を見据えた。
「オカフグ、お願い! ほんの少しでいいから、あの二匹の動きを止めて!」
二匹のスネーギーはピュリステラ・ハーティアを警戒して腹を見せないように身を寄せ合っている。その連携を崩すため、頼もしい騎士にお願いする。
『あいよ。我が主の願いとあらば……』
闇夜に紛れて少し離れた位置にいたオカフグは、にやりと笑うように口元を吊り上げる。その傍らに、無骨な弓を浮かび上がらせる。
先ほどの桃色の和弓とは違い、今度の弓身は夜に溶けるような黒。闇に紛れ、獲物を射抜くための、オカフグの狩人としての弓だった。
小さな前足が、何もない空間を引き絞る。漆黒の矢が二本、同時に生まれた。
『その程度、朝飯前――』
ぎり、と見えない弦が限界まで引き絞られる。
『だニャッ!』
二本の矢が、左右へ分かれて放たれた。一方は左のスネーギーの目元へ。もう一方は右のスネーギーの鱗の隙間へ。
どちらも致命傷を狙ったものではない。だが、無視するには鋭すぎる一撃だった。
『シャアッ!?』
『ギシィッ!』
二匹の鎌首が、同時にわずかに逸れる。
「今っ!」
ピュリステラ・ハーティアは地面を蹴った。薄紅の光が足元で弾け、身体が一気に前へ押し出される。
狙うのは、二匹の間。
互いの弱点を庇うように寄り添っていたその陣形。そこに生まれたわずかな綻びへ、真正面から飛び込む。
「はあぁっ!」
桜色の刃が夜闇を裂いた。
一匹目の硬い鱗をかすめ、火花のような光を散らす。だが、そこで止まらない。ピュリステラ・ハーティアは身体をひねり、刃の角度を変える。
鱗を断つのではなく、力の流れを滑らせるように、スネーギーの身体を横へ押し流した。
『シュアッ!?』
体勢を崩した一匹が、もう一匹の方へよろめく。
絡み合うはずだった二匹の動きが、逆に邪魔になった。ぶつかりそうになる相手を避けようとしたその瞬間、片方の腹部がわずかに露わになる。
「見えたっ!」
その瞬間を逃さない。
ピュリステラ・ハーティアはさらに踏み込み、桜色の刃を下からすくい上げるように振り抜いた。
『ギシァ!』
腹部が裂け、黒い染みのような瘴気が噴き出す。
だが――浅い。
相手がのけ反っていたせいで、刃は表面を切り裂くに留まっていた。致命傷には届いていない。
「ハーティア、前!」
「――っ!」
斬り上げた姿勢のままのピュリステラ・ハーティアに向かって、最初に体勢を崩した一匹が正面から突っ込んできた。
リーフィラの声に気付き、星光の剣で突進を受け止める。
「ぐっ……!」
両足に力を込めて踏ん張る。スネーギーの突進に押され、靴底がアスファルトを削るように後ろへ滑った。
それでも、受け止め切る。
だが、足を止めたその瞬間、もう一匹が頭上から覆いかぶさるように襲い掛かってきた。
「上からっ!?――オカフグっ!」
耳に風切り音が届く。返事はなくとも、頼れる騎士は答えてくれる。
『ギュァ!?』
漆黒の矢が、頭上から迫るスネーギーの出鼻をくじく。覆いかぶさろうとしていた鎌首が大きく揺れた。
同時に、正面のスネーギーが押し込んでくる力がわずかに緩む。まるで、攻撃を相方に譲ろうとしたかのような一瞬の隙。
正面の一匹は伏せたまま。この角度から剣を振っても、硬い鱗に阻まれる。
だからこそ、ピュリステラ・ハーティアは一歩踏み出した。剣ではなく、逆の足を大きく振りかぶる。
「ここだぁ!」
振りかぶった足を、勢いよく突き出す。伏せているスネーギーのさらに下へ、つま先を滑り込ませる。
伏せているなら、起こせばいい。腹を隠しているなら、無理やり晒させればいい。
「ハーティア――」
『ガッ!?』
ブーツの先端を伏せていたスネーギーの下顎に食い込ませ、声を張り上げつま先を押し上げる。
「昇天キーーック!」
ピュリステラ・ハーティアの足が、高く蹴り上げられた。
『ガアッ!』
『ゴハッ!』
勢いよく蹴り上げられたスネーギーの頭が、上から襲い掛かろうとしていたスネーギーの下顎をかち上げた。
二匹のスネーギーは絡み合い、もつれたまま互いを引っ張るように横へ転がった。
そして、そろって腹を――天に晒す。
「今よ、ハーティア! 決めちゃいなさい!」
「たあっ!」
リーフィラの声とともに、ピュリステラ・ハーティアが飛び上がる。
空中で身体を捻り、薄紅の残光が円を描いた。
「ぐるぐる……カッタァーー!」
桜色の刃が、夜闇に螺旋を刻む。
ピュリステラ・ハーティアは星光の剣を大きく振り抜き、並んで腹を晒した二匹のスネーギーをまとめて幾重にも切り裂いた。
『ガッ……ァ……』
二匹のスネーギーは、黒い染みのような瘴気を散らしながら、ゆっくりと輪郭を崩していく。
ぬらりとした鱗も、巨大な胴体も、やがて夜の闇に溶けるように薄れ、消えていった。
「……ふうっ」
ピュリステラ・ハーティアは、ようやく息を吐いた。
〝星光の剣〟の光が静かに揺れ、夜気に桜色の粒子を散らす。張り詰めていた空気が、ほんの少しだけ緩んだような気がした。
「なかなか無茶苦茶するわね。でも、いい戦いだったわよ」
「リーフィラ! ありがとっ! 侵魔の動きを教えてくれたおかげだよ!」
リーフィラが少し呆れた様子を見せつつも褒めてくれた。
その言葉を受けて、ピュリステラ・ハーティアはぱっと表情を明るくする。
「あいかわらず、技名のセンスは皆無だけれどね」
「そっ、そんなことないもんっ!」
どうやら、そこだけは見逃してもらえなかったらしい。
『やったニャ、主!』
暗がりから響く明るい声。黒猫のぬいぐるみであるオカフグがふわふわと近づいてきた。
「うん。オカフグもありがとっ!」
『ニャハハッ! もっと褒めてもいいニャ!』
「うんうん! ナイスなタイミングですっごく助かったよ!」
『ニャハハハーッ!――って、うニャ?』
ピュリステラ・ハーティアは両腕を広げ、愛する小さな騎士を迎え入れた。
オカフグはその中に飛び込むも、思ったよりも強く前足を掴まれて困惑の声を漏らした。
「でーもー……」
声が一段低くなる。
「わたしの胸をバカにしたのはこの肉球かーっ!」
『ニャ……ニャハハ~! や、やめるニャ~! 肉球はだめニャ~!』
「やめないもーんっ! ぷにぷにぷに~っ!」
オカフグの小さな前足を掴みながら、ピュリステラ・ハーティアは肉球をこれでもかといじくり回す。
『ニャハハハ~! バカにしたんじゃニャくて、褒めただけニャ~! 許してニャ~!』
しばらくの間、オカフグのくすぐったそうな笑い声が響き渡った。




