かすむ記憶と光の少女③
松丘は暗い街をたった一人で駆ける。足音だけがやけに大きく響いた。自分の呼吸音が、鼓動が、すべて周囲に漏れ出しているような錯覚に襲われる。
周囲の空気は季節を無視して冷たいまま。だが、走ったことで身体が温まった松丘にとっては、問題にはならなかった。
「うおおっ、なんだっ!? と、影か……」
明滅する街灯の近くを抜けるたび、一瞬だけ映る影が、長く歪む。
視界の端に何かがいるような気がして、何度もそちらを見てしまう。それでも、歯を食いしばって前を向き直す。
「先ほどの悲鳴は……この辺からだと思ったのだが……」
大きな通りに出て、足を止める。頼りない街灯の光に照らされるのは、無人の舗道と、沈黙した建物の影だけだった。
見回しても、それらしい人影は見当たらない。
「もう少し先の方か……? っ! あれはっ!?」
駅前の広場の方に顔を向けて目を凝らす。その先――街灯の光がかろうじて届く場所に、人の姿があった。
へたり込むように地面に座り込んだ女性。松丘は、その姿を認めた瞬間、反射的に地面を強く蹴っていた。
近づくにつれて、女性の表情がはっきりと見えてくる。
恐怖が張り付いたような顔。引きつった口元。視線は松丘ではなく、彼女の前方――何かを見上げるように向けられている。
女性は、じりじりと後ずさりしていた。だが、その視線の先に何があるのかは、物陰に遮られて見えない。
「うおおおっ! 大丈夫ですかーっ!?」
だが、そんなことは関係ないとばかりに声を張り上げ、女性の方へ駆け寄る。こちらの方を見た女性の顔は最初こそ驚いた顔であったが、少し安堵したように見えた。そして、松丘に教えるように先ほどまで見ていた方に指を向けた。
「怪しい輩め! この俺が相手になっ!……っ!?」
松丘は女性を庇うように躍り出る。女性を襲おうとする何者かに向けて、威嚇するように金属バットを構えた。
だが、その勢いは――一瞬で、凍りついた。
目に映った〝それ〟を理解した途端、喉の奥が強く締めつけられる。
――違う。
これは、人ではない。
松丘の中で膨らんでいた虚勢も、勇気も、
次の瞬間には、音を立てて崩れ落ちようとしていた。
「な、なんだ……これは……?」
巨木のような太い胴体を持ち、人の背丈を超えるほどの巨大な――ヘビ。
未開の密林の奥深くなら、まだ理解できたかもしれない。だが、ここはコンクリートとアスファルトに覆われた都会の街だ。そんな場所には、どう考えても存在するはずがない生き物。
テレビ越しに見た大蛇など、比べものにならない。画面の向こうではなく、今まさに自分の目の前にいるという事実が、その大きさと凶悪さを何倍にも誇張して感じさせていた。
黒光りする鱗は街灯の光を鈍く反射し、ぬらりとした光沢を帯びている。その身体から立ち昇る禍々しいオーラが、周囲の空気を歪ませ、背景の建物さえ陽炎のように揺らしていた。
「ヘビ……? いや、ヘビのバケモノ、か……!?」
そう口にした途端、ようやく実感が追いついたのか、口の中が一気に乾いていく。唾を飲み込もうとしても、喉が貼りついたように動かなかった。
「い、い……いやぁぁーっ!」
「えっ!?……あっ! ぬおっ!?」
背後から弾けた悲鳴に思わず振り返る。
その瞬間、松丘の視界の端で、女性の姿が跳ねるように動いた。へたり込んでいたはずの彼女は、恐怖に突き動かされたかのように立ち上がり、脇目もふらずにその場を駆け去る。
――速い。
あまりにも潔い逃走だった。
あっという間に距離が離れ、松丘はただ呆然と、その後ろ姿を見送ることしかできなかった。
『シュルルァー……』
「う……ぬぅ……」
低く、湿った音が耳に届く。
気づけば、背後にいたはずの人間は消え失せ、松丘は巨大なヘビのバケモノと、たった一人で向き合っていた。
(なんということだ……! まさか、こうまで見事に置いていかれるとは……!)
確かに、凶悪そうな生き物を前にした時の行動として、逃げることは責められるような行動ではない。むしろ、一般人としては至極まっとうな判断だ。
だが――。
せっかく、勇気を振り絞って前に出たというのに。自分なりに覚悟を決めて、女性を庇ったというのに。胸の奥に、じわりとやるせない感情が広がっていく。
女性を前に、格好いいところを見せたかったわけではない。……ない、はずだった。
いや。正直に言えば――結構、期待してしまっていた。
助けたあと、感謝されるとか。震えながらも「ありがとうございます」と言われるとか。そんな都合のいい展開を、ほんの少しだけ、想像してしまっていたのだ。
だというのに、現実はどうだ。肝心の女性は、全力で逃げていった。これでは、何のために勇気を振り絞ったのか分からない。
どうやらこれは勇気ではなく、ただの蛮勇だったらしい。
そして、その代償は――どう考えても、高くつきそうだ。
「……ぉ……おぅい! こ、このっ……バケヘビっ!」
しばらく続いた重苦しい沈黙に耐えきれず、松丘は喉の奥から声を絞り出した。
本来なら、胸を張って啖呵を切るつもりだった。だが、実際に口から出てきたのは、震えを隠しきれない、情けないほど上ずった声だった。
「きっ、キサマの目的はなんだっ! どうやって俺たちをこんなところに連れ込んだ!? 何が目的だっ!」
人の気配も、街の光も覚束ない――まるで現実の裏側に落とされたかのような空虚な街。その中でも、我が物顔で鎮座する巨大なバケモノ。
この異常事態と無関係なはずがない。いや、考えるまでもなく、原因そのものだろう。
言葉が通じそうな気配はまるで無い。それでも、何かを言わずにはいられなかった。
「なんとか言ったらどうだっ! 聞こえていないのかっ!? それとも理解する脳みそがないのか!?」
言葉が、勢いだけで零れ落ちていく。
止めようと思っても止まらない。喋っていなければ、今にも膝が崩れ落ちそうだった。
「……ふっ! 図体はデカいがやはりただの爬虫類! 頭は良くないようだなっ!」
自分でも、何を言っているのか分からなかった。
半ばヤケクソだった。思いつく限りの罵詈雑言を並べ立て、無理やり自分を奮い立たせているだけだ。
だが――
『シャアァァッ!』
「俺がその頭を叩いてやろ――っ! ぐ、おっ……!?」
一瞬だった。
巨大なヘビが、ほんのわずかに鎌首を揺らし、威嚇するように声を上げただけ。それだけで、松丘の喉の奥は凍りついた。
息が、できない。
喉に冷たい刃を押し当てられたかのように、空気が通らない。
ヘビのバケモノから放たれた圧が、胸を内側から締めつけてくる。まるで、巨大な何かに全身を押さえつけられているかのようだった。
(……殺気……?)
一瞬、そんな言葉が頭をよぎる。
そんなものはアニメやマンガの中だけの話だけ。そんなあやふやな気配を感じ取ることなんてできるわけがない――そう、思っていた。
だが、今この瞬間理解した。理屈ではなく、理性でもなく、身体の奥深くに刻み込まれるように理解してしまった。
これは、間違いなく――〝死〟だ。
この圧倒的な重圧は、自分が〝生き物として劣る側〟であることを、否応なく突きつけてくる。
心臓が、耳障りなほど大きく脈打つ。背中を冷たい汗が伝い、足元から感覚が抜け落ちていく。
虚勢も、根性も、啖呵も。さっきまで必死に積み上げていたものは、音を立てて崩れ落ちようとしていた。
「ぅ……ぁ……」
凍てついた喉から出るのはもはや意味ある言葉ではなくただのうめき声。走ることにより温まっていた身体は、今は芯から冷えている。
呼吸は浅くなり、身体が小さく震え出す。寒さか恐怖か――いや、両方だろう。
身体の震えを自覚し、抑えるように四肢に力を込める。しかし、震えは収まるどころか激しくなっていく。
どうすればいいか、考えようとするも全く思考はまとまらない。〝恐怖〟――その感情が思考の間に挟まり、妨害してくる。
まとまらない考えで必死に答えを出そうとした結果、だんだんと原始的な発想に流れていく。
(このバットで殴りつければ……あのヘビも怯むかもしれん……)
その行動を正当化するためか、思考は極端になり、妄想すら入り始める。
(そのまま倒せる、かも……いや、今この時、俺に超常のスーパーパワーが目覚めて……そうだ、そうに違いない……!)
視界も思考もぼやけ始める。夢か現実か分からなくなり、極度の恐怖から倒錯し始める。
(今から攻撃だ……! 五つ数えたら、行くぞ……! 十、九……)
松丘の攻撃的な雰囲気を察したのか、巨大なヘビは鎌首をゆっくりと高く、徐々に後ろに引いていく。
だが、松丘はそんな目の前のバケモノの様子に気付くことなく、手元のバットを見つめ、震えながらうすら笑いを浮かべていた。
(二、一……零! い、今だっ! いまっ! い、いまからっ……!)
カウントダウンは終わった。それでも松丘は踏ん切りがつかず、焦点の合わない目でバットを見つめるだけ。
逆に巨大なヘビの鎌首が引き絞られた弓矢のように力が張り、後はその力を解き放つだけ。
――その瞬間。
「とりゃああぁぁっ!」
『――ギシャアアァァッ!?』
突如、少女の声が鋭く響く。
空気が爆ぜるような衝撃が走り、激しく巻き上がった砂埃が、一気に視界を曇らせる。
「うっ!……うぉあっ!?」
轟音が耳を突き刺し、衝撃と振動が身体を揺さぶり、思わず尻もちをついてしまった。地面から伝わる冷たさと硬さが、遅れて実感として押し寄せてくる。
「ぁ……い、痛っ……!? 一体、なにが……?」
打ち付けた尻がジンジンと痛み、巻き上がった砂埃が顔をちくちくと細かく刺激する。腕で顔を覆い、周囲を探る。
次の瞬間、ざあっ、と一陣の風が吹き抜ける。優しく頬をなでた風が、舞い上がっていた砂埃を一気に押し流し、夜の視界を切り開いた。
そして――そこに立っていた〝人影〟が、はっきりと姿を現す。
「お、おおっ……!?」
松丘の喉から、思わず声が零れ落ちる。後ろ姿しか見えなかった。顔は見えないし、何者なのかも分からない。だが、そんなことはすぐに霞んでしまった。
闇の中で際立つ、可憐な衣装。
夜の帳を明るく照らす、輝く桃色の光。
巨大なバケモノを前にしてなお揺るがない、凛とした立ち姿。
そして――先ほど耳を打った、玉を転がすように澄んだ声。
それらすべてが、あまりにも鮮烈だった。
松丘はただただ茫然と、その後ろ姿を見つめていた――。




