かすむ記憶と光の少女②
その日、松丘は普段は降りない駅のホームに降り立った。目的はスポーツ用品店だ。最寄り駅の近くにはまともな店がなく、種類も古いものばかり。道具を買い替えるなら、ここしかないと判断したのだ。
体験入部を経て、正式に野球部に入ることを決めた。中学の時も野球部だった彼は高校でも同じ部活を選んだ。
中学の時から使っていた道具に愛着はある。しかし、高校からは球が軟式から硬式に変わる。それに合わせて道具を一新する必要がある。
「うむ! やはり大きな店は品ぞろえが良いな!」
大きな街の駅前に構えるスポーツ用品店。入口から一歩踏み入れただけで、壁一面に並ぶ各メーカーの新作、用途別に分類された無数のアイテムが目に飛び込んでくる。
田舎のスポーツ用品店ではいつから置いてあるか分からないものも多く、新しいものがあまり入ってこないことが多い。その点、ここには最新のトレンドを取り入れた品がずらりと並んでいる。
眺めているだけでも心躍る。手に取って感触を確かめればさらに胸が高鳴る。
「このグローブは……おお、手に馴染む! 流石は本革製! とても良いものだな! 値段は……う、う~む……」
品質が良いものはその分値段も高い。田舎のスポーツ用品店であれば店主と値段交渉もできるが、レジにいるのは、やる気をどこかに置き忘れてきたような顔をした若い男性。おそらくアルバイトで入っているだけであり、値段交渉なんてとても切り出せそうにない相手であった。
「第一候補はこれにしておこう! さて、次はバットを見るとしよう!」
持っていたグローブを棚に戻し、今度はバットのコーナーに向かう。今日のためにおこづかいを貯めていた。お年玉も残っているし、親からも野球道具を買うことを理由に追加でお金をもらっていた。予算は十分にある。値段を理由に妥協してしまえば後で後悔することになる。
「このバットは……デザインは良いが、俺には軽すぎるな! こちらのバットは振ったときの感覚が他とは違うな……なるほど、バットの重心が先にあるタイプはこのような感触になるのか! ふむ……これなら芯に当てたときはホームランも夢ではないな!」
気になったバットを数本手に取り、素振り用に用意された少し開けたスペースで実際に振って感触を確かめる。
中学の頃の野球部では、道具の多くを先輩から譲り受けて使っていた。お金がかからない点は良かったが、自分の好みにあったものを選ぶことはできなかった。
今は自分で選ぶことの楽しさをかみしめつつ、財布と相談しながら候補を見繕った。
「こちらはトレーニング用品のコーナーか! 思ったより種類が豊富だな! おお、これがあの有名なメジャーリーガーも使ったというサンドボールか! こっちはバンブーバット! ぬ? この穴の開いたボールはどういう用途なのか……いかんいかん、見ていると本当に欲しくなってきてしまうな!」
バットを戻す際に目に入った練習用品が並べられたコーナーに立ち寄る。
商品のうたい文句につい目移りしてしまう。十分なお金はあるとはいえ、全額使ってしまえば今度のやり繰りが難しくなる。
「欲しいものすべて買ってしまったら、昼飯がコッペパン一つになってしまうではないか! 道具も大事だが、食べるものも大切にしなくてはな!」
メインで使う道具は妥協しない分、予定していなかったものまで買うのは我慢することにした。ここは誘惑を断ち切り、選ぶべきものだけ選ぶ覚悟を決める。
「やはりグローブとバットは妥協できんな! 全部合わせていくらになるのか……分からん! まあ、レジが計算してくれるだろう!…………なに!? 全部で十三万!? 高いな! 十万にまけてもらえんだろうか!…………ダメか!」
妥協しなかった分、値段は思ったよりも高くなってしまった。思わず値段交渉を切り出したが、レジに立つ無表情なアルバイト店員は一切取り合ってくれなかった。
松丘は財布を握りしめ、小さく肩を落とすしかなかった。
「ふふふ……やはりこのグローブの手触りは素晴らしいな!」
値段を聞いたときは肩を落とした。だが、買ったこと自体に後悔はない。松丘はさっそく袋から取り出し、意味もなく撫でては、思わず頬がゆるみ、小さな子供のように興奮してしまった。
「さて、外も暗くなってしまったな。早く帰るとしよう!」
スポーツ用品店で欲しかったものを一通りそろえた後、親に頼まれた消耗品を買うためにいくつかお店を回った。その結果、必要なものを買いそろえた時には遅い時間になってしまっていた。肩に背負ったバッグはパンパンであった。
「今日の夜はさっそくこのバットで素振りの練習をせねばな!」
帰宅後の予定に胸を膨らませていたら、また買ったばかりの物に手が伸びてしまった。
「……おっと、いかん! 街中で金属製のバットを持ち歩いていたら、不審者として警察に捕まってしまうな!」
流石に街中でいきなり素振りをし始めるようなことはしないが、金属バットを持っているだけで十分に危ないだろう。
慌ててバットをしまおうとした瞬間――ひやりとした風が、首筋を撫でて通り過ぎた。
「ぬぅ……? ずいぶんと季節外れな風が……」
暖かい気温の中で吹いた風。だが、涼しいと感じる余裕は無く、身体の芯を刺すような寒さを帯びていた。
思わず震えがこみ上げ――ふと顔を上げる。
そして、街の様子が変わっていることに気づいた。
「……なんだこの暗さは!? 停電か!? いや、それより――周りにいた人たちはどこに行ったというんだ!?」
さっきまで人で賑わっていた街が、まるで打ち捨てられた遺跡のように静まり返っていた。商業施設の明るさも、人のざわめきも、何一つ残っていない。
いつの間にか、がらんどうの街に自分ひとり――そんな不安が背筋をつたう。
「なにか情報は……なにっ、圏外!? こんな街中でだと!?」
情報を求めてスマホに手を伸ばしたが、何の情報も得ることはできなかった。それどころか――
「うおっ、急に電源が切れた!? 再起動が……できないっ! どうなっているというのだ!?」
何度押しても画面は真黒なまま。さっきまで明るい光を灯していたスマホは、もはやただの板切れに成り果てていた。
スマホが沈黙したまま、どれだけ指で押しても画面は黒い板のまま動かない。その事実が、じわじわと松丘の胸の奥に重苦しい不安を染み込ませていく。
だが――何が起きているのか、まるで見当がつかない。停電か、事故か、それとも、もっと悪い何かか。
「……落ち着け、落ち着くんだ俺。まずは……そうだな、周りの状況の確認だ……!」
自分の声を聞いていないと不安に押し流されそうで、松丘は意識的に言葉を口にしていた。肩に背負ったバッグをおろして見回した。だが、周囲の様子は、まったくもって理解できない状況のままだった。
暗い――ただ暗いのではない。街灯だけが弱々しく瞬き、頼りない光を落としている他には、商店街の明かりも看板の照明も、すべてが息をひそめている。まるで町そのものの電源が抜かれたようだった。
小さな独り言すら、やけに響いて聞こえる。耳を澄ませば澄ますほど、耳鳴りのような静寂が押し寄せる。車の走行音も、人々のざわめきも、遠くの店内BGMすら聞こえない。
――人の気配が、完全に消えていた。
「こんな……こんなはずはないだろう……?」
喉の奥がきゅっと冷え、息が白くなるのではと思うほどの寒気が這い上がる。暖かい初夏の夜のはずなのに、今ここだけ冬が落ちてきたようだった。
空気そのものが凍りつき、自分だけが取り残されたような――そんな嫌悪感にも似た孤独が背骨をなぞる。
その時――。
『きゃああああああっ!!』
凍てついた空気を切り裂くような、女性の悲鳴だった。
「なにっ……!? 誰かの、叫ぶ声っ……!」
はっと顔を上げる。だが、いくら走り出そうとしても、足が地面に縫い付けられたように動かない。
「うっ……」
周囲に広がる氷のような雰囲気が、筋肉のひとつひとつを固めてしまったかのようだ。
カツン――。
手にしていた金属バットの先を、無意識にアスファルトへ落としてしまう。乾いた硬質な音が夜気に響き、松丘の心臓を強く揺さぶった。
その瞬間――胸の奥で何かが弾けた。
「だが……このままここにいても、良いことなど何もないだろっ!」
腹の底に力を込めて叫ぶ。震える声でも構わない。縮こまっているだけの男が、このバットを振るう資格などない――そう自分に叱咤するように。
バットを握り直し、もう片方の手で荷物の入ったバッグをたぐり寄せて再び背負い、顔を上げる。
バッグはずしりと重かったが、その重さがなぜか背中を押してくれるような気がした。
何が起きているのかも分からない。
行って何ができるかも分からない。
それでも――。
「逃げるわけには……いかんだろう!」
膝が笑うのを力で押しとどめ、松丘は悲鳴の上がった方向へ――震える足を叱咤しながら、闇の中へと駆け出した。




