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第3章:何の驚きもない人生

『そして今もなお、私はお前の声に耳を傾けることができる。

草原に身を横たえ、

耳を澄ませ続ければ、いつの日か再び、

あの黄金の日々を取り戻せるのだ』

ーウィリアム・ワーズワースー

「さてと……って、うそだろ!? まだ午後3時二21分じゃないか! 僕って、意外と自転車を漕ぐのが速いんだな!」


僕は秘宝館の下にある駐輪スペースに自転車を停めると、階段を駆け上がり、五階を目指した。


階段を上っている途中、何やら中年おっさんたちの話し声が耳に入ってきた。

「サイズ」とか「厚さ」とか、そんな言葉が聞こえてくる。


……まあ、どこから出てきた人たちなのか、わざわざ考えるまでもない。


「聞いてるこっちが恥ずかしくなるな……」



五階に到着すると、僕は受付の前を走り抜け、廊下の突き当たりにある532号室へと向かった。


「マジで! 今朝も部屋の鍵をかけ忘れてたのか、僕は!」


ドアを押し開けると、そこには畳一畳分ほどしかない、ちっぽけな部屋が広がっていた。

木製の机に、年季の入ったパソコン。

壁には服を掛けるためのフックがいくつか取り付けられている。

それ以外には、これといって価値のあるものなど何もない。


幸い、部屋の中は朝と変わらない状態だった。

どうやら、こんな貧乏人の持ち物を盗もうなどと考える物好きはいなかったらしい。


僕は急いで着替えを済ませた。

黒いスラックスに白いワイシャツ、そしてネクタイ。

最後に首から職員証をぶら下げる。大学の特別資料保管庫で働くスタッフ専用の身分証だ。


よし、準備完了!


僕はもう一度、革製のカバンの中身を確認してから、部屋を飛び出そうとした。


……いや、待て!

「危ねえ! イヤホンを忘れるところだった!」


慌てて振り返り、部屋の中を探す。

お目当ては、今年の初めに母さんが秋田から送ってくれたワイヤレスイヤホンだ。

僕が音楽好きなのに、最新型のイヤホンを買うお金すら惜(お)しんでいると知った母さんが、わざわざプレゼントしてくれたのである。

何でも、東京より秋田のほうが少しは安く買えるらしい。


それに、イヤホンがあれば隣の部屋の住人に迷惑をかける心配もない。

何しろ、このネットカフェの壁は驚くほど薄いのだ。隣の部屋の人が話している内容まで、はっきり聞こえてくることさえある。


「よし! ここから大学までは自転車で六分くらいか。音楽でも聴きながら走るとするか!」


僕はスマホを取り出し、プレイリストからお気に入りの曲を探して再生ボタンを押した。


流れてきたのは、英国のロックバンド、『絞殺者(こうさつしゃ)』の『黄褐色(おうかっしょく)』。


……『絞殺者』って、名前だけ聞くと、首を絞めて回るギャング集団みたいだよな。

だが、名前に騙されてはいけない。

彼らの音楽は、本当に素晴らしいのだ。


耳元で心地よいメロディーが流れ始める。

僕はボロボロの自転車に飛び乗り、雷門通り近くの石畳(いしだたみ)の道を走り出した。

夕日に照らされた浅草の街並みを眺めながら、ペダルを漕ぐ。

『黄褐色』の妖しくも魅惑的なメロディーが、僕の心をどこか遠くへと連れ去っていく。


======

(〜〜黄褐色、太陽のような質感 。僕は寝ることで、僕の力で彼女は走れるか 〜〜)


音楽に身を委(ゆだ)ねているうちに、僕の意識はいつしか、最近読んだばかりの時代小説の世界へと入り込んでいた。


19世紀イギリスの作家、サー・ウォルター・スコットの名作――『アイヴァンホー』。


(〜〜 夜通し、戦う必要でない 〜〜)


脳裏(のうり)に浮かぶのは、アシュビー=ド=ラ・ゾウシュで開催された馬上(ばじょう)槍試合(やりしあい)の光景だ。

正体を隠した謎の騎士アイヴァンホーが、荒々しいノルマン人の騎士たちを次々と打ち破っていく。

勝利した彼が、ロウィーナ姫に名誉の冠(かんむり)を捧げ、彼女を「愛と美の女王」に選ぶ場面。

獅子心王リチャードが旅の騎士に変装し、ロビン・フッドの仲間たちと力を合わせて、敵に包囲されたアイヴァンホーを救い出す場面。


(〜〜 睨んだりしないから、黄褐色。睨んだりしないから、黄褐色 〜〜)


そして――。

僕の心を最も強く揺さぶる場面が、脳裏に浮かび上がった。


傷ついた身体を引きずりながらも、レベッカを火刑(かけい)から救うため、テンプル騎士団の騎士との決闘に挑むアイヴァンホー。


そこは、正義を貫(つらぬ)く騎士たちが輝かしい武勲(ぶくん)を立てることのできる世界。

一歩踏み出せば運命的な出会いが待っているかもしれない。

命を懸けた戦いに巻き込まれるかもしれない。

あるいは、何世代にもわたって語り継がれる物語の主人公になれるかもしれない。


(〜〜 いつでも 最後のようで、マストに縛られた彼女の船で 〜〜)


……今の僕が生きている世界とは、なんと違うことだろう。


大学の講義。

バーやカフェ、コンビニでの忙しいアルバイト。

見知らぬおじさんやおばさんのために、東京中を自転車で走り回る配達の仕事。



僕は一体、何のためにこんな生活を送っているのだろう?


授業料の滞納(たいのう)分を払い終え、無事に卒業するため?

いつか国立国会図書館で働くため?

お金を貯めて、将来は両親に恩返しをするため?

まだ顔も知らない未来の妻と結婚するために、結婚資金を貯めているのか?

それとも、いつか生まれるかもしれない子供たちのために、貯蓄(ちょちく)をしているのか?


(〜〜 遠い土地へ、僕の両手を取り 〜〜)


……考えれば考えるほど、大人の人生というものは退屈に思えてくる。


僕はいつの間にか、自分自身を小さなネズミに変えてしまっていた。

社会が「普通の人間なら目指すべきだ」と考える目標を追いかけ、毎日必死に走り続けるネズミに。



今日も昨日と変わらない。

明日もきっと、今日と変わらない。



大学の時間割。アルバイトのシフト。部屋の家賃。未納(みのう)の授業料……。

すべてが、決して止まることのない車輪のように、延々と繰り返されていく。



何も変わらない。

何の驚きもない。



(〜〜 睨んだりしないから、黄褐色。睨んだりしないから、黄褐色 〜〜)



そして、僕の人生には、心に残るような冒険の一つすらなかった。


(次回に続く)

注釈:

1. 「絞殺者」は、実在するイギリスのロックバンド「The Stranglers」の代わりに、私が使用した架空のバンド名です。本作は現実世界とは異なる並行世界を舞台としているため、バンド名を変更しました。

2. 「黄褐色」も、The Stranglersの代表曲「Golden Brown」の代わりに使用した架空の曲名です。中世風の雰囲気を持つ音楽にハマっている方なら、この名曲をご存じかもしれません。

3. アシュビー=ド=ラ・ゾウシュ(Ashby-de-la-Zouch)は、イングランドに実在する町です。中世には数多くの馬上槍試合が開催された場所として知られていました。また、この長い地名は、ゾウシュ家(Zouche family)が所有していたアシュビー(Ashby)という集落に由来しています。

4. ロビン・フッド、またの名をロクスリー(Locksley)は、ウォルター・スコットの小説『アイヴァンホー』にも登場する人物です。彼が実在した可能性は十分にあると考えられていますが、彼にまつわる物語が次第に伝説化し、今日私たちが知るロビン・フッドの伝説になったとされています。

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