第2章:東京の灰色ネズミ
『だが、小さなネズミよ、お前だけではない。
先を見越したところで、無駄に終わることを知るのは。
ネズミも人間も、どれほど綿密に計画を立てようと、
往々にして思いどおりにはいかぬもの。
そして、約束されていたはずの喜びに代わって、
後に残るのは、ただ悲しみと苦しみばかり』
ーロバート・バーンズー
「林……林……林ぃぃぃっ!」
「は、はいっ!?」
「お客さんのお会計! いつまでぼーっとしてるんだ! ずっと待たせてるだろ!」
「も、申し訳ございません!」
慌ててレジの前に立ち、目の前で不機嫌そうにしているスーツ姿の男性二人に向かって頭を下げた。
「お会計は、合計1560円でございます!」
僕は慌ててレジのボタンを操作し、レシートを印刷して差し出した。
「まったく……最近の若者は仕事もろくにできないのかねえ」
「スマホばっかりいじってるから、こうなるんですよ」
二人はそんなことを言いながら、嘲笑するように店を出ていった。
僕は引きつった笑みを浮かべたまま、カウンターの向こうで立ち尽くしていた。
……くそっ!
六年前のことを思い出していただけなのに、こんなに仕事に集中できなくなるなんて!
今度こそ、店長にこっぴどく叱られるに違いない。
「林くん、今日はどうしたんだ? いつもは一生懸命働いてくれるのに、今日は魂が抜けたみたいじゃないか」
「すみません。今朝起きたときから、少し肩が痛くて……そのせいか、どうも頭がすっきりしないんです。次からは気をつけます」
「まあ、いいさ。ちょうど君も上がりの時間だろう。今日はもう帰って、ゆっくり休みなさい。明日も働いてもらわなきゃならないからな」
「ありがとうございます! それでは、お先に失礼します!」
僕は店長に頭を下げると、スタッフルームへ向かった。
真夏の暑さの中で着ていた蒸し暑い制服を脱ぎ、
朝から身につけていた黒いスラックスと緑色のシャツに着替える。
さて、と……。
次は大学の資料保管庫で、実習の仕事をしなければならない。
僕は黒い革製のカバンをあさり、出発前に必要なものを確認した。
……ん?
ちょっと待て。
学生証はどこだ!?
カバンの中をひっくり返し、あらゆるポケットを探したが、学生証はどこにも見当たらなかった。
まさか……家に忘れてきたのか!?
くそっ!
学生証がなければ、大学の入構ゲートを通れないじゃないか!
……仕方ない。
浅草のアパートまで取りに戻るしかないか。
僕は店の裏手へ走った。
そこには、店の壁際にぼろぼろの自転車が無造作に停められていた。
神田から浅草までは、自転車を飛ばしても最低二十分はかかる。
現在、午後二時五十三分。
資料保管庫に到着しなければならない時刻までは、あと五十分ある。
……まだ間に合う!
よし。
全速力だぁぁぁっ!!
僕は自転車に飛び乗ると、勢いよくペダルを踏み込み、大通りへ飛び出した。
こうして、東京の街を駆け抜け、浅草の自宅へと戻るための自転車レースが始まったのである。
……ところで、皆さんは疑問に思っているかもしれない。
どうして僕は、こんな真夏日に自転車を漕いでいるのだろう?
電車に乗れば、もっと楽に移動できるはずなのに。
その答えは至って単純だ。
金がないからである!
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僕の名前は林和志。
今年で二十歳になる、浅草大学文学部の三年生だ。
世の大学生は誰もが「金がない」と嘆くものだろう。
だが、貧乏の度合いを競うのであれば、僕は学内の大半の学生に勝てる自信がある!
毎日、ラーメンを三杯食べ、さらにカフェオレを三缶飲んで、どうにか食いつないでいる。
服はといえば、去年、秋田の実家から送ってもらった古着ばかり。
高価な教科書なんて、とても買えない。
だから、他人の教材を写真に撮らせてもらい、それを読んで勉強している。
しかも、大学の外でアルバイトを四つも掛け持ちしているのだ。
……あ、いや。
資料保管庫での実習も含めれば、五つだった!
彼女がいないから、デート代も服を買う金も必要ない。
飲み会に参加する必要もない。
そもそも、一緒に飲みに行くような親しい友達が一人もいないのだから。
……どうだろう?
一見すると、完璧な節約生活ではないだろうか。
それなのに、財布の中身はなぜか着実に減っていく。
その原因は、大学に納めるべき授業料だった。
ここ三か月、分割で支払うために必死でやりくりしてきた。
それでも、今なお残っている未納額は――。
752,540円。
……750,000円以上。
さすがにこの金額を考えると、家族にはとても相談できない。
結局、自分一人で何とかするしかなかった。
では、僕はいったいどうやって今日まで生き延びてきたのだろうか?
正直に言えば、
自分でもよく分からない。
ただ、どうしても浅草大学で勉強を続けたかったのかもしれない。
苦労して受験を突破し、ようやく入学できた大学なのだから。
あるいは、いつか自分が本当に好きだと思える仕事に就きたいからかもしれない。
僕の夢は、国立国会図書館で働くことだった。
世界各国の貴重な文学作品を所蔵する、あの場所で。
自分が心から愛してやまない時代小説の初版本に触れ、そこに刻まれた時代の息吹を感じる。
……そんな夢を叶えるには、まだまだ遠い道のりが待っているのだが。
それでは、今の僕の東京生活はどうなのだろう?
英語には、僕の境遇をうまく表現した言葉がある。
RAT RACE
都会のネズミたちが、金や地位、そして日々の暮らしを守るために、終わりのない競争を繰り広げる。
誰もが走り続けなければならない。
誰もが立ち止まることを恐れている。
ほんの少しでも足を止めれば、たちまち他人に追い抜かれ、取り残されてしまうからだ。
そして僕もまた、そんな終わりのない競争に囚われた、貧乏学生の一人だった。
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「よ、よかったぁ! やっと着いた!」
必死にペダルを漕ぎ続けた末、僕はようやく浅草の雷門通りへとたどり着いた。
そう。
僕が暮らしているのは、畳一畳ほどの個室があるネットカフェだった。
しかも、その真下には、いわゆる秘宝館まで入っている。
とはいえ、家賃は一般的な学生向けアパートのわずか五分の一ほど。
金さえ節約できるなら、僕は一生ここに住んだって構わない!
(次回に続く)
注釈:
1. 「ラットレース(rat race)」とは、社会における人々の熾烈な競争を指す英語の慣用表現です。まるで下水道のネズミたちが餌を求めて走り回り、互いに争うように、人々は競争に追われ、自分の楽しみのために使う自由な時間さえ失ってしまいます。残念ながら、これは世界中の大都市で暮らす多くの若者が直面している現実でもあります。
2. 大人の読者の皆さんには、わざわざ「秘宝館」について説明する必要はないと思います。ただし、18歳未満の若い読者の皆さんは、「絶対に立ち入ってはいけない場所!」 だと思っておいてください!




