後編:二人は待ち続けた
『黄金の門へと、彼は私を抱き上げる。
閃光が走っては、また消えてゆく。
天上の星々の床が一斉に砕け、
その光を地上へと降り注がせる』
ーアルフレド・テンニソン卿ー
そのとき、二人の亡霊の口論は、さらに激しさを増した。
『この若造め! お前は牧師でありながら、我らが救世主が連中の手によって受けられた受難を軽んじるつもりか! あの、善良な人間をその美貌で惑わす女に、幸福な結末を与えようなどと、よくも考えられたものだな!』
『おい、馬鹿じいさん! 聖書の言葉を盾にして、自分の腹黒さを隠そうとするのはやめたらどうです!」
テンプルトンは、一歩も引かなかった』
『レベッカは、イスラム教徒であろうと、キリスト教徒であろうと、ユダヤ教徒であろうと、誰に対しても分け隔てなく親切に接していたんですよ! あれほど寛大な心を持つ彼女が、救世主の教えに背いているとでも言うのですか!?』
――コンコン。
そのとき、寝室の外から、若いメイドの声が響いた。
「旦那様、トマス様のご一家がお見えになりました!」
二つの亡霊は、まるで煙のように忽然と姿を消した。
夢うつつの中で二人の言い争いに悩まされていたスコット卿は、ようやく静けさを取り戻した。
ちょうどよい頃合いに訪ねてきてくれた従甥の一家に、彼は心の中で感謝した。あの終わりの見えない口論から、ようやく解放されたのだから。
「……入っ……て……もら……え……」
部屋の奥の扉が、ゆっくりと開いた。
一組の夫婦と、幼い少年が一人。
三人は急ぎ足でベッドへと近づいてきた。
彼らはトマス・スコットの一家。スコット一族の傍系にあたる親族だった。
「伯父上。妻のジェーンと、息子のアレクサンダーを連れてまいりました」
「うむ……。来てくれて……ありがとう……」
スコット卿の視線が、ふと七歳になったばかりの少年、アレクサンダーの手元に留まった。
少年は、小さな胸いっぱいに抱え込むようにして、一冊の革装丁の本を持っていた。幼い身体には、ずいぶんと大きな本だった。
「さあ、アレクサンダー。ウォルター卿に本をお渡ししなさい。もう、あまりお時間がないのだからね」
父に促され、アレクサンダーは慎重に本を差し出した。
その上には、一本の羽根ペンも添えられていた。
「スコット卿、ぼく、『アイヴァンホー』が大好きなんです! 母上が何度も読み聞かせてくれるんですけど、何度聞いても飽きません!」
少年は、目を輝かせて続けた。
「それで、この本にサインをいただきたいんです! ぼく、スコット卿のことをとても尊敬しています!」
「アレクサンダー……いい子だね。ありがとう……」
スコット卿は、かすかに微笑んだ。
「それで……物語の中では……誰が一番好きなのかな?」
「もちろん、アイヴァンホーです!」
少年は元気よく答えた。
しかし、すぐに何かを思い出したように、言葉を濁した。
「……でも……」
「……でも?」
アレクサンダーは少し恥ずかしそうに俯き、声を潜めた。
「でも……ぼく、レベッカも大好きなんです」
その答えに、スコット卿は思わず目を見開いた。
「……どうしてだい?」
アレクサンダーの顔が、みるみる赤くなっていく。
少年はもじもじしながら、小さな声で答えた。
「……だって、すごく可愛いんだもの。ぼくがアイヴァンホーだったら、きっと彼女に恋をしちゃいます!」
スコット卿は、少年を見つめたまま、優しく微笑んだ。
その瞬間だった。
長年にわたって彼の心を苛み続けてきた、あるわだかまりが、ふっと解けていくような気がした。
胸の奥にあった重苦しさが、ほんの少しだけ軽くなる。
まるで、ずっと昔に失ってしまった何かを、ようやく取り戻せたかのようだった。
スコット卿は、従甥の妻ジェーンに支えられながら、どうにか上半身を起こした。
震える手で羽根ペンを握りしめ、本のページを開く。
そして、ゆっくりと、自らの名を記した。
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WALTER SCOTT
〜ユダヤ人の少女レベッカを愛する君へ。
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翌朝。
1832年9月21日。
ウォルター・スコット卿は、六十一年の生涯に幕を下ろした。
彼の遺体は、スコットランドの雄大な田園風景に抱かれたツイード川のほとり、ドライバラ修道院に埋葬された。
生涯を通じて愛し続けた、故郷の大地であった。
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アレクサンダー・スコットが受け取ったその本は、貴重な初版本だった。
1820年、エディンバラ市で初めて刊行された『アイヴァンホー』である。
それから幾世代もの時が流れた。
本はアレクサンダーの家系に伝わる家宝となり、一世紀以上ものあいだ、大切に保管され続けた。
やがて、それはハロルド・スコット教授の手に渡ることとなる。
二十世紀初頭。
ハロルド・スコット教授は、明治政府の招聘を受けて日本へ渡った。
浅草義塾において、彼は日本人の若き学生たちにヨーロッパ古典文学を教えた。西洋文学が新たな時代の知識として受け入れられつつあった頃のことである。
教授は、家族に代々伝わる宝物として、あの『アイヴァンホー』を日本へ持参した。
学生たちにも、ぜひこの貴重な本を見せてやりたいと考えたからだ。
ハロルド・スコット教授の死後、本は浅草義塾に寄贈された。
学校の貴重な所蔵品として保管されることになったのである。
ところが、第二次世界大戦が終わった後、その本は忽然と姿を消した。
誰が持ち去ったのか。
どこへ消えたのか。
その行方を知る者は、誰一人としていなかった。
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そして現在。
その本は、浅草大学の特別資料保管庫にひっそりと眠っている。
何百冊もの書物に囲まれ、厚い埃をかぶりながら、いつの日か再び日の目を見る時を待ち続けているのだ。
だが、待っているのは、その一冊だけではない。
ほかにも二つの亡霊がいた。
二百年ものあいだ、ずっと待ち続けてきた亡霊たちが。
すべてに決着がつく、その日を。
ウォルター・スコット卿の願いが果たされる、その日を。
――ヨークのレベッカの運命が、書き換えられる日を。
(序章の終わり)
注釈:なし




