第19話 私が信じるもの
開け放たれた扉をくぐった。
色とりどりの光が差し込み、白い床を染めていた。
奥には長椅子が並んでいて、たくさんの人たちが午後の祈りを捧げていた。
祈りの声が天井でこだましている。
蜜蝋だろうか、少し甘い香りが漂っていた。
「すげぇな……」
シドが感嘆の声を上げた。
クレアは大聖堂に入った瞬間、言葉を失っていた。
天井を見上げ、あたりを見渡す。
そして、祭壇の上の一点を凝視したまま動かなくなった。
そこには、よく似た二体の女神像が並んでいた。
右の像は剣と盾を、左の像は錫杖を持っている。
「……女神様がなんでここに……」
クレアの視線は右の像に向いている。
祭壇の奥から、生成りの法衣を着た老人がゆっくりと歩いてきた。
法衣は洗い晒しで、裾が擦り切れて短くなっている。
「姫様。お城には顔を出されましたかな」
「……まだ。というか、なんでみんな知ってるの!?」
老人が困った顔になる。
「神の前では嘘はつけませんな……また姫様が無断転移されたので気を付けるように……と。姫様が立ち寄りそうな場所に回っておるようです」
「あいつら……! しかも、気を付けるようにってなによ!」
彼は、そう言うティナを横目に、クレアに視線を合わせた。
「これは珍しい……その神官服はアウレリアの……でしたかな?」
「……はい! あ、あの……なぜ、ここの女神像は二体あるのでしょうか」
「本来、女神様は双子なのです。右がアストレイヤ様、左がその姉君のセラフィーナ様です」
そう言って、一瞬、物憂げな表情をした。
「……え? 双子? 私が教えられたのは、アストレイヤ様だけで、唯一神だと……」
クレアは右の像と左の像を、何度も見比べていた。
僕から見たら、持っているものが違うくらいで、どちらも同じに見えてしまう……
「あ、そうだ。この人は大司祭のヨアヒム。教会の一番偉い人よ」
雑な紹介に、ヨアヒムと呼ばれた老人が苦笑していた。
ティナとは対照的に、クレアが緊張した様子でかしこまる。
ぎゅっと自分の神官服の裾を握りしめていた。
「だ、大司祭様!? 失礼いたしました!」
「いえいえ、そう固くならず。こちらの教会は、それほど身分に厳しくありませんので」
ヨアヒムさんはそう言って、柔らかい笑顔を見せる。
そして、またティナの方に向きなおった。
「姫様は、こちらに何か御用があったのでは?」
「そうね。クレアにこっちの聖典を見せてあげてほしいの」
「……なるほど。かしこまりました。ではどうぞこちらへ」
ヨアヒムさんは祭壇の脇に立つ木の台へ、クレアを促した。
台の上には、革表紙の厚い本が置かれていた。
「どうぞ。ここでは誰でも読めます」
クレアは、聖典に手を伸ばしたままためらっていた。
◇◆◇◆◇
ティナさんにこの国に連れてきてもらってから、びっくりの連続です。
見たこともない便利なもので溢れ、みんなが笑顔でした。
教会では魔族の国は暗く、瘴気が立ち込めていて、人は立ち入れないと教わりました。
王の家では、お腹をすかせている子が一人もいませんでした。
貴族でなくても勉強を教えてもらっていました。
——私たちの孤児院で同じことができるでしょうか。
魔族ってもっと怖いものだと思っていました。
だけど、私が見た人たちは全然違いました。
それに、あの食堂での祈りの言葉……
あれは、私が毎日唱えているものとほとんど同じでした。
今、私の目の前には魔族の聖典があります。
とても丁寧に扱われているのが一目でわかります。
これを開いてしまうと、今まで信じてきたものが嘘になってしまう気がしました。
ためらっていると、大司祭様が声を掛けてくださいました。
「大丈夫です。ここに何が書いてあっても、何を信じるのかはあなた次第です」
私は小さく頷くと、重い表紙をゆっくりと開きました。
目に入ってきたのは、見慣れた文字でした。
なぜ、魔族の聖典が人間の文字で書かれているのでしょうか……
最初の一行は、私が毎朝唱えている祈りの句でした。
一字も違いません。
次のページも、その次のページも同じでした。
手が止まったのは、女神様について書かれた箇所です。
私の持っている聖典にはこうあります。
『女神は一つなり。慈愛と勇気の女神アストレイヤ、剣と盾をもて弱き者を守りたり』
ですが、こちらには——
『女神は双つなり。姉は慈愛の女神セラフィーナ、錫杖をもて傷つきし者を癒やしたり。妹は勇気の女神アストレイヤ、剣と盾をもて弱き者を守りたり』
大司祭様のおっしゃったとおりでした。
私が毎日祈ってきた「慈愛」は、お姉様のものだったのでしょうか。
ページをめくります。
そこから先は、また同じでした。
床に落ちていた色硝子の模様が、いつの間にか赤く長く伸びています。
祈りの声も、もう聞こえません。
それでも、手を止められませんでした。
「え……」
シルウェニアという国について書かれた箇所でした。
私の聖典では、こうです。
『シルウェニアに魔族あらわれ、国は一夜にして滅びたり。聖王国アウレリア、救いの兵を発すれども、間に合わず』
ですが——
『シルウェニアに叛く者あり、国は二つに割れたり。エルデンハイムの王、救いの兵を発すれども、間に合わず。かくてシルウェニアは滅び、叛きし者ら、南に下りて国を建て、これを聖王国と名づけたり』
聖王国。
私の国の名前です。
シルウェニアという国は魔族に滅ぼされたのではないのですか……魔族が救いの兵を送った?
反乱を起こした人たちがアウレリアを造った……?
もう訳がわかりません……
私が今まで教えられてきたことは何だったのでしょうか。
何を信じればいいのでしょうか。
なぜでしょう……涙が止まりません……
「クレア……大丈夫?」
ティナさんが声を掛けてくれました。
全然、大丈夫ではありません……
ティナさんが抱きしめてくれました。
だめです……
◇◆◇◆◇
「うわぁぁん!」
すでに陽が傾いていた大聖堂にクレアの泣き声だけが響いている。
抱きしめているティナも目に涙を浮かべていた。
「ごめんね、クレア。辛かったよね。でも、ちゃんと知っておいてほしかったの……」
「わ、私は……何を、信じだら……いいのでしょうか……」
その様子を見ていたヨアヒムさんが二人にそっと声を掛けた。
「聖典も所詮は誰かが書いたものです。途中で書き換えられているかもしれません。ですので、鵜呑みにする必要はありません」
二人は静かにヨアヒムさんへ視線を向けた。
「真実を知っている方から聞くのが一番かと。幸い、私はその方を知っております」
真実を知っている人。
——なぜだろう……僕の頭の中で「ひっひっひ」という笑い声が響いた。




