57話:恋慕の時
王宮の裏山で、私は木々の間を駆けていた。
極寒の風が、肌着しか纏わぬ私の身体から容赦なく体温を奪っていく。
この森は、ソフィーたちの育った孤児院の近くにあったそれとは、桁違いの広さだ。こうなってしまっては、彼が私を見つけることは容易ではない。
一歩踏み出すごとに、素足が雪の振り積もった大地を踏み抜き、落ち葉の下の鋭い小枝や石が肌を傷付ける。息が上がり、冷気が肺を刺す。
感覚を失った足先は、すでに自分の身体の一部とは思えない。ただ慣性に従って、泥濘を跳ね、腐りかけた苔を蹴り、漆黒の迷宮を彷徨い続ける。
――アリエル。
幻聴だろうか。風の唸りに混じり、私を呼ぶ声が聞こえた気がした。
立ち止まることは死を意味する。心臓の鼓動を耳元で聞きながら、私はもつれる脚をさらに前へと突き出した。
その時だった。
森の外縁を、轟音と共に爆ぜる朱赤が埋め尽くした。草木から一斉に火の手が上がる。それは単なる延焼ではない。意志を持った獣のように、円筒状の巨大な帳となって、私と外の世界を完璧に断絶させた。
遠く、天を衝く炎の壁が揺らぐ。違う。揺らいでいるのではない。縮まっているのだ。
熱風が音を立て、朱赤の円筒は徐々に、その直径を小さくしていく。
(これは……あの人の……!)
その事実に気づいた瞬間、背筋に冷たいものが走った。この森すべてを包囲し、一寸の隙もなく縮めていく、暴力的な焔の能力。
けれど、これだけの規模だ。彼だって無尽蔵ではないはず。
体力を消耗して、火が消えるのを信じるしかない。
私は踵を返し、炎から逃れて森の中央へと、再び走り出した。
背後から迫る熱波が、私の髪を、肌を焦がす。感覚の消え失せた足で、ふらつき、転び、それでも這うようにして、わずかな闇が残る場所を目指した。
炎は私が追い込まれていくのを嘲笑い、ゆっくりと迫る。やがて、木々が開け、視界が青白く染まった。
目の前に広がっていたのは、巨大な氷の回廊だった。いつか来た、凍結した渓谷が成す天然の参道だ。
脳裏で、かつての彼の言葉が蘇る。
『冬にしか現れない洞窟だ。いつか君に見せたいと思っていた』
停止した滝の横を抜けてたどり着いたのは、猛る炎の咆哮さえも届かない洞窟の最深部。
「……っ、は、あ……っ」
激しい運動で噴き出した汗が、極寒の気に触れた瞬間、反転する。濡れたシュミーズの重みが急速に身体の芯まで達し、感覚が遠くなっていく。奥歯がガチガチと鳴り、呼吸さえも白く硬直した。
意識の混濁に抗いながら、私は救いを求めるようにして、胸元へ手を伸ばした。フロストリアスの凍える夜を何度も越えさせてくれた、あの硬い感触を確かめるために。
けれど、指先が掴んだのは、薄い布切れ越しに伝わる、自分の粟だった肌の冷たさだけだった。
(私は今さら何に縋って……)
虚空を握りしめたまま、心臓が凍土に叩きつけられた。
『君たちに王家の証を与えたのは、大きな間違いだった』
君”たち”?
刹那、蓋をして奥底に封じ込めていた考えが頭をよぎった。
――イヴはなぜ命を狙われたのだろうか?
血を流し崩れ落ちるイヴの顔。スカーフを留めるトパーズのリング。
そうだ。イヴを危険に晒したのは。
私は欲張りだ。最期にイヴに会いたいなどと。思い返せば、断頭台で死ぬはずだった私はこの王宮で、彼女に再会できただけで十分すぎるほどに幸せだった。
死すべきは、最初からずっと私だけだったのだ。
溶けゆく氷の洞窟に、陽炎のように過去が揺らめいた。
処刑場に現れ私を攫ったときも、逃げ出そうとして崖から落ちた私を庇い怪我をしたときも、二人で美術館の絵画を覗き込んだときも、二人でピアノを奏でたときも。そして、イヴのための贈り物を一緒に選んだときも。
彼はいつだって、執拗なまでの愛の言葉で私を満たし、優しく撫でてくれた。一度だって私を傷つけたことはなかった。
――私は、この人の純粋すぎる愛を、独りよがりの猜疑心で汚し続けていただけだった。
「…………」
眼前に迫る包囲網。炎の帳を開くことなく力任せに引き裂き、彼が姿を現した。煤にまみれ、肩で荒い息を吐くその姿に、かつての高貴な余裕はない。ただ、愛しい者を喪う恐怖に魂を削られた、一人の男の形相がそこにあった。
彼はよろめきながら私を掻き抱き、凍死の淵にいた私の身体を、自らの胸板へと埋める。
「よかった……間に合って、本当によかった……」
震える声と共に、熱い涙が青ざめた頬を濡らした。
彼は迷わず外套も上着も脱ぎ捨て、シュミーズの上から、自らの体温が残る衣を幾重にも私に巻きつける。剥き出しになった彼のシャツの下、激しい鼓動が直に伝わってきた。
「ルイス様、私は――」
「いい。帰ろう。僕の、僕だけの愛しいアリエル」
灰の雪が舞う中、ルイスはすべてを赦すように、あるいは、赦しを請うように、私の存在を抱きしめ直した。




