56話:決別の時
彼に抱き上げられて連れてこられたのは、本邸の浴室ではなかった。わざとらしく温かな外套を着せられ、辿り着いたのは王宮の端、美しい森を一望できる展望浴場だった。
「こんな場所があったのに。隠して私をあの部屋に閉じ込めていたのですね」
「…………愛しい君の肌に触れる口実が欲しくてね」
彼はこの数日、イヴの残像を追い浴室で半狂乱になった私の身体をタオルで清めてくれた。――愛されているのだと、大切にされているのだと、そう信じていた。
更衣室に下ろされるなり、ルイスは背後から蛇のように私を抱きすくめ、首筋に顔を埋めた。
「……ん、っ、あ……」
ただ欲望の捌け口にされていただけだったのだと悟ってなお、情けなく反応する身体。彼は嘲笑うかのように、饒舌に言葉を重ねる。
「悪いのは君の方さ。白皙の肌が僕を狂わせたんだ。ああ、君は降りしきる雪よりも白く、汚れひとつない……!」
「ふ……っ、あ」
漏れた吐息を、彼は愛おしげに、そして残酷に拾い上げる。私を手中に収めたことを誇示する。
「それに、ここは塀さえ越えれば容易に逃げ出せてしまうからね。だが、今はその心配も無くなった。君はもう僕から離れることが出来ない。そうだろう?」
先刻マヤたちが着せてくれたばかりの綺羅びやかなドレスが剥かれ、足元に落ちる。肌着だけになった私の首筋に、彼の手が触れる。トパーズの指輪を通した銀のチェーンが、金属が擦れるかすかな音を立てた。
瞬間、彼の呼吸が荒く乱れた。
「っ!!! ……はあ、っ、はぁ……!」
彼は乱暴にネックレスを引きちぎり、床に投げ捨てた。怯える私を他所に、彼はすぐに平静を装い、シュミーズに手をかけた。
「緊張しているのかい? 君がそれでは面白くない」
強張った二の腕を、彼の冷たい指先が這う。
「今日は肌着は着けたままにしようか……。イヴに会わせてあげる日は遠ざかるがね。湯治のようなものだと思えばいい。銘酒も用意している」
ああ、そうか。この男はどうあっても私をイヴに会わせるつもりなどないのだ。だとすれば、私の取るべき道は決まっている。
私は振り向き、自らシュミーズの裾を掴んだ。
「やめ給え。君にそんな真似をされても興醒めだ」
彼の制止を無視して、厚手の布を力任せに一気に捲りあげた。
空気が凍った。
「――それは?」
「何か、お気に召さないことでもありましたか?」
彼の視線は、私の下腹部に釘付けになっていた。
薄く桜色に色づいた大きな裂傷。醜く黒ずんだ周囲の皮膚。
彼は膝をつき、傷跡に震える手を伸ばした。しかし、触れることもなくだらりと垂れ下がり、床を撫でるばかりだった。
「……傷跡…………どうして、残って……。僕が遅かったから?」
「あなたたち”能力”をもつ者と私たちとで、身体の強度が同じだとでも思っていたのですか?」
乾いた、壊れた楽器のような掠れ声。直後、彼の呼吸が劇的に乱れ始めた。
「……ッ、は、ぁ……! っ、げほっ……!!」
肺が酸素を拒絶しているかのように、彼は激しく肩を揺らし、胸を押さえてその場に倒れた。端正な顔は見る間に青ざめ、額には脂汗が浮かぶ。ヒッ、ヒッ、という、喉を掻き切るような短い吸気音だけが、静まり返った更衣室に虚しく響く。
かつて戦場で、あるいは王宮で、無慈悲に他者を圧してきたあの威厳はどこにもない。目の前にいるのは、自分の無力さと、守れなかったという現実の重圧に押し潰され、酸欠に喘ぐただの哀れな男だった。
私は、その無様な姿を冷徹に見下ろし、彼が最も触れられたくないであろう急所を、言葉の刃で容赦なく抉り抜いた。
「いえ。ごめんなさい。傷も負わず無様に泣くばかりだった”レイス”君には、知る由もないことでしたね」
「っ、あ……アリエ、ル……! まって、くれ!」
「さようなら」
彼の赤い耳飾りにそっと手を添えて、別れを告げる。
膝をつき、呼吸を奪われ、絶望の泥濘に沈みゆく彼を背に、私は夜の森へと身を投げた。背後から聞こえるのは、喉を鳴らす死に体のような喘ぎ。
これが、私が彼に与えることのできる、唯一の、そして最高の復讐だった。
ルイスの追っ手から逃れ、密航を成功させ雷の国に入れるなら理想だ。けれど、極寒の中で死ぬならそれでいい。私がいなくなればイヴは人質としての価値は無くなり解放されるだろう。
私の最後の脱獄が始まった。
完結まで残り2話です!




