55話:【幕間】遅すぎる男
――時は数時間前に遡る。
覇気に満ちた顔で王宮の長い廊下を歩く赤髪の青年。彼の脳裏には、雷の国でカイと交わした会話の断片が、興奮を抑える鎮静剤のように蘇っていた。
それは彼らが武をぶつけ合い交流を深めた翌日。
「朝からすまない。熱に浮かされるあまり忘れていたよ……。父王が君に渡してほしい、と」
彼は小包を取り出し、カイに差し出した。
「なんで俺に?」
怪訝そうに覗き込むカイから、青年は目を逸らす。何と語るか、この場に辿り着くまで確固たる指針が定まっていなかった。
一瞬の思案の後、青年は、数週間前に成人の儀を終えたばかりの男の琥珀色の瞳を見つめた。
「君の”能力”には我が国も世話になっているからね。ただの謝礼だろう」
「まあ、そういうことなら」
彼の手から小包を摘み上げ、中身の質感を確かめようとする。しかし、厚い紙の防壁は彼の指に何も伝えない。
「さて、兄弟。治療院まで一緒に行かないか?」
常人よりも遥かに強靭な、”能力”を操る者たちの身体。昨夜の熱狂も彼らにとっては重症から程遠い。青年は、ジェラルドの提案を拒み、夜更けに治癒の能力者を呼び出すことを固辞していた。
青年にとって、向かいに立つカイも同じ判断をしたであろうことは尋ねるまでもない事実だった。
「今日は王立治療院の視察だったな。生憎、俺は非番でな。遠慮しておこう」
「君も傷を治しに行くだろう? …………いや、もう治していたのか……」
カイは、青年の重い打撃を受けた脇腹を庇う様子もなく伸びをしてみせる。
「ん? ああ、俺は朝が早いんでな」
時刻は早朝。負傷し疲労した身体で砂の雲に乗り、さらに瞬く間に傷を癒せる能力者がいたとすれば、あるいは。この時間に王宮で欠伸をすることができただろう。
青年はその場で詮索することなく、カイに背を向けた。
――舞台は、フロストリアスの王宮へと戻る。
今、青年の中では、甲板を濡らした少女の血と結びつき、ひとつの仮説を描いていた。
(なるほど。雷の国には余程腕利きの治癒能力者がいるということか。……だが、彼が僕に嘘をつくとはな)
彼は小さく頭を横に振り、執務室の重厚な扉を押し開いた。
「待たせたな、ジェラルド。早速で悪いが、船を手配してもらえるか」
だが、忠臣ジェラルドの返答は冷ややかだった。
「恐れながら、承服いたしかねます。今、王宮の外にアリエル様をお連れするのは危険です」
「どういうことだ?」
「……文の続きをご覧ください」
差し出された紙面。そこには、目を疑うような事実が書き連ねられていた。
『雷の国にて、下手人の一人を捕らえた。尋問の結果、判明したことは2点。ヴェルザードから国境を越えて侵入した刺客であること。そして、標的は”トパーズのアクセサリー”を付けた女であったこと』
青年は脱力する膝を支えるようにして、デスクの両端を掴んだ。
アリエルと共にイヴへと贈った王家の象徴。彼の庇護下であることを示す証。
「ならば、イヴが狙われたのは――」
主の言葉を、ジェラルドが遮る。その言葉を青年に口にさせることは、長く仕えた彼にとっても耐え難い痛みだった。
「なぜ居所が漏れたのかは不明です。ですが、ヴェルザードの内部には、本気でアリエル様の口を封じるつもりの勢力がいます」
黄金の瞳は輝きを失い、長い指先がデスクを抉る。
ジェラルドは目を伏せたまま、感情を抑えた声で続ける。
「殿下。過ぎたことに気を取られて、判断を誤ってはなりません。こちらもご覧ください。ヴェルザードのレオン殿下からの密書になります」
『イヴより、アリエルの処遇について報告を受けました。丁重な扱いに感謝いたします。今しばらくどうか彼女らのことを頼みます』
手紙が濡れる。その先は滲んで読むことは叶わない。彼はデスクに崩れ落ち天を仰いだ。
長い、長い沈黙が流れた。
「……ご用命を受けておりました通り、展望浴場の整備は完了しております。一度澄んだ外気を吸ってから、お考えください」
静かに寄り添い続けていたジェラルドが、恭しく頭を下げる。
「……僕は何をするにも遅いな。それももう必要なくなった。望むものがいれば使用人の皆に開放して構わない」
自嘲気味に吐き捨てる。
遠くから見た断頭台。恋焦がれた女に迫る白刃。神速を謳われるレオンの斬撃。繋がったままの首。
「本来は雨季のみに使用する物ですから、大変だったと聞いております。ですが、皆が殿下のためにと、昼夜を問わず作業にあたってくれました」
ジェラルドの言葉はもはや、青年の表面を滑るのみ。彼の内側は、アリエルと交わしたばかりの約束で塗りつぶされていた。




