54話:罪
外の世界が怖かった。
王宮はイヴとの記憶の断片が散りばめられている。ルイスの匂いと色で埋め尽くされた私室でだけ、私は辛うじて涙を堪えることができた。
ぼんやりとした思考。時間は淡々と過ぎていく。彼に慈しまれて荒れた指先もすっかり治った頃、扉を叩く音が響いた。
「雷の国のカイ様より、殿下宛に文が届いております」
彼の忠臣、ジェラルドの声が扉越しに響く。だが、ルイスは私の肩に手を回したまま、億劫そうに唇を動かした。
「どうでもいい。君が開封しておいてくれ。対応も任せる」
「では、失礼してここで拝見いたします」
紙が擦れる音が聞こえ、数秒の沈黙が流れる。直後、雷の国での視察中もずっと平坦だったジェラルドの声が、珍しく高揚を含んで震えた。
「殿下。読み上げます……! 『イヴ様は奇跡的に一命を取り留めており、王宮にて治療後、意識を取り戻した』と」
「……っ!」
ルイスの身体が跳ねる。
「…………以降の内容は国家の機密を含みます故、執務室にて続きを」
「わかった。直ぐ行く」
彼は、確かな足取りで立ち上がった。その瞳には、沈んでいた数日間にはなかった、金の光が宿っている。
「ルイス様……今の話……、イヴは――」
ルイスは跪き、私の両手を強く握りしめた。驚くほど熱く、確かな生の温度。
「カイの言葉なら信用できる。直ぐに、王家で所有する船を準備させよう」
彼は前髪を掻き上げ、上着を羽織った。扉に手をかけて振り返り、優しい微笑みを浮かべる。
「マヤとソフィーを付けておく。僕が戻るまでに、支度を済ませておいてくれるかい?」
「はい……っ!」
胸の奥で、せき止められていた血流が噴き出したかのような熱が生まれる。イヴが生きている。その事実が、私の魂に火を灯し、体温を急速に押し上げていく。
彼はマヤとソフィーを呼び出すと、執務室へと急いだ。彼女らはわずかに息を呑むと、二人がかりで私の身だしなみを整え始めた。
気を遣っているのだろう。私の乱れた姿など視界に入っていないかのように、この数日に外で起きた取り留めのない出来事をソフィーは穏やかに語った。彼以外の人間と口を利いたのは久しぶりだ。
やがてソフィーは仕上げを終えると、鏡越しに私の目をのぞき込んだ。
「アリエル様……。良かったですね」
羞恥から意識を逸らそうとして、話題を変えた。
「ええ、ありがとう。そう言えば、ソフィーは昔から子供たちの面倒を見ていたの?着替えとか、髪を結うとか」
「はい、昔から先生のお手伝いをするのが好きで……」
彼女は、遠い目をして私の長い髪を眺めた。
「ですが、お洒落に気を使っている余裕なんてありませんでしたから。髪は短く切りそろえるのが基本でした」
背筋に冷たい汗が流れた。脳裏に蘇るのは、薄暗い地下室で聞いた言葉。
『お嬢様なんかには知る由もないことです』
私はテーブルにぶつかりそうなほど低く頭を下げた。
「ごめんなさい。そんなつもりじゃなかったの」
「謝らないでください。私たちが一番寂しいのは、”透明”に扱われることですから。知ろうとしてくれた気持ちが嬉しいのです」
彼女は言葉を区切って、片目を閉じた。澄んだ声で顔を綻ばせる。
「リゼちゃんは……あとライラちゃんも! さらさらした髪で、伸ばしたらきっと可愛いと思うんですけどね」
ライラとは誰だったか。
私の膝の上で寝息を立てていた少女の名前は何だったか。
命を賭した”儀式”に臨んだ少年の名前は何だったか。
——そして、そのあと憎むべき司教は、何と言ったのだったか。
私が口にしてきたのはいつも。子供たちが、子供たちを、子供たちのために……。
作り笑いもできず、ただ両手を握りしめた。
私は罪人だ。
崇高な使命も大義も、この手の中には最初から存在していなかったのだ。
もはや私に残された心の拠り所は、生きる理由は、ひとつだけ――。最後に、こんな私を信じてくれたイヴに感謝を伝えよう。それで終わりでいい。
彼女らの阿吽の呼吸により、着替えはごく短時間で終わってしまった。マヤが航海中の私の荷物を整理し、ソフィーがお茶を淹れる。私はそれに手をつけることもなく、彼の体温を感じるベッドの端に茫然と腰掛けていた。
コチコチ、と。秒針の音だけが響き続ける。ルイスが私室に戻ってきたのは数時間後だった。
扉が開く音と同時に、私は縋るように立ち上がり、彼へと駆け寄った。
「ルイス様……! イヴには、イヴにはいつ会えるんですか?」
期待を抑えきれない私の声。だが、彼の瞳に宿っていたのは、先ほどの躍動ではなく、底冷えするような昏い不悦だった。
「…………近頃、君は口を開けばイヴのことばかりだな。一体誰のおかげで生きていると思っている?」
彼はかすかに腫れた目元で私を見下ろし、まるで獲物を検分するような冷たさで首筋をなぞった。
「ルイス様?」
「実に不愉快だ。君たちに王家の証を与えたのは、大きな間違いだった」
ルイスは強い力で私の肩を抑えつけ、イヴとお揃いのトパーズの髪飾りを解いた。するりと、上品に編み上げられた髪が重力に引かれて垂れる。
彼は絶望に曇る私の表情を嗤いながら、残酷な宣告を突きつけた。
「罰として、君が反省するまで彼女には当分会わせない」
「そんな……!!」
目の前が真っ暗になる。やっと掴みかけた光が、彼の指先ひとつで再び闇に葬り去られていく。
「だが……そうだな。君が僕を満足させてくれると言うなら考え直してもいい」
「私は、あなたに何を差し出せばいいですか?」
肩を震える私を見下ろし、彼は唇の端を歪めて、歪な慈愛を口にする。
「従者を思う崇高な心に敬意を評して、今日も君の身体は僕が清めてあげよう」
結局、彼にとって希望を取り戻した私は守るべき対象ではなく支配する対象でしかないということだろう。
それまでの作業とは違う、明確な独占の意志。イヴに会いたいという私の切望を餌に、彼は私のすべてを蹂躙し、愉悦に浸るつもりなのだ。
「……あなたを心から軽蔑します。約束してください。イヴに会わせてくれるって」
「さあ? それは君の態度次第だな」
彼は私を抱き上げると、浴室へと向かった。
ルイスに一体何があったのか……
本日3/24中にもう1話投稿予定です!
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