第1話 知らない会社から届いた督促状
第1話 知らない会社から届いた督促状
毎月十日は、佐藤葵が家計簿を締める日だった。大手住宅設備メーカーの経理部で働く葵は、会社でも自宅でも数字を一円まで合わせなければ落ち着かなかった。朝から着ていた白いブラウスの袖を肘までまくり、紺色のスカートのまま食卓へ座ると、銀行の明細とレシートを日付順に並べた。
八月の午後八時を過ぎても、窓の外には昼間の熱が残っていた。エアコンは低い音を立て、ベランダに干した拓海の靴下が、閉め忘れた網戸の向こうでかすかに揺れている。夕食に作った豚肉とピーマンの炒め物は二人分を皿に盛ってあったが、拓海からは「少し遅くなる」と短い連絡が来ただけだった。
葵は麦茶を一口飲み、今月の収支を確かめた。住宅ローン、光熱費、食費、保険料を差し引いても、予定どおり八万円を貯蓄へ回せる。結婚して五年、旅行も外食も控えめだったが、老後資金は七百万円を超えていた。
「今月も、ちゃんと八万円残せた」
返事をする者はいなかったが、葵は帳面の数字に小さな丸をつけた。拓海は家計管理を葵へ任せきりにしており、貯蓄額を尋ねるのも年に一度あるかないかだった。それでも葵は、二人が病気になったときや仕事を失ったときに困らないよう、毎月欠かさず積み立ててきた。
家計簿を閉じた葵は、玄関脇の郵便受けから持ってきた封筒の束へ手を伸ばした。電気料金のお知らせ、生命保険会社の案内、通販のカタログに交じって、厚みのある茶封筒が一通入っている。宛名は拓海で、左下には赤い文字で「重要」と印刷されていた。
差出人は東都事業金融株式会社だった。葵はその社名を知らなかったが、事業者向けの融資会社らしいことは封筒の表記から分かった。拓海は設備会社の営業職であり、自分で商売をしているわけではない。
夫婦であっても、拓海宛ての封書を勝手に開けることには抵抗があった。葵は封筒を食卓の端へ置き、冷めかけた味噌汁にラップをかけようとした。しかし封筒の裏側には、受取人不在のまま再配達されたことを示す印があり、その横には「期限の利益喪失に関する通知書在中」と書かれていた。
葵の指から、ラップの箱が滑った。箱は床へ落ち、銀色の刃を上に向けたまま、椅子の脚にぶつかって止まった。会社で取引先の信用情報を確認する仕事もしている葵には、その言葉の意味が分かっていた。
期限の利益を失うとは、分割で返済できる権利を失うことだった。返済が滞れば、債権者は残金の一括返済を求めることができる。これが単なる広告や契約案内ではないことだけは、封を開けなくても分かった。
午後九時二十分、玄関の鍵が回った。拓海は汗で襟の湿った水色のワイシャツを着て、片手にコンビニの袋を下げていた。袋からは揚げ物の油とソースの匂いが漂ってきた。
「ただいま。腹減ったな。今日、豚肉のやつだろ?」
拓海は靴を脱ぎながら言ったが、葵は迎えに立たなかった。いつもなら鞄を受け取り、冷蔵庫からビールを一本出していた。拓海は食卓の上に置かれた茶封筒を見ると、伸ばしかけた手を止めた。
「拓海、この会社を知っている?」
葵が封筒を指で押すと、拓海はネクタイを緩めながら目をそらした。冷蔵庫を開け、自分でビールを取り出そうとしたものの、しばらく中を眺めただけで扉を閉めた。答えを考えているときに鼻の横をかく癖が出ていた。
「仕事の関係じゃないかな。俺、営業だから、いろんな会社から郵便が来るんだよ」
「あなたの会社宛てではなく、あなた個人宛てよ。しかも期限の利益を失ったという通知です。営業案内に、こんな言葉は使いません」
「開けたのか?」
「開けていません。封筒に書いてあります。あなたが開けて、私にも見せてください」
拓海は立ったまま封筒を手に取った。親指を差し込もうとして二度失敗し、最後は食卓に置いてあった葵の事務用はさみを使った。中から三枚の書類を取り出すと、一枚目だけを見て伏せた。
「大したことじゃないよ。ちょっと支払いが遅れているだけだ」
「誰の支払いが、いくら遅れているの?」
「葵には関係ない。俺の知り合いの話だから」
「それなら、どうしてあなた宛てに一括返済の通知が届くの?」
拓海はビールの缶を開けた。勢いよく泡があふれ、指と食卓をぬらしたが、布巾を取りに行こうとはしなかった。葵はいつものように拭こうとして伸ばした手を途中で止め、膝の上へ戻した。
「美咲だよ。川村美咲。前に話したことがあるだろ。中学の同級生で、今は自分の店をやっている」
「幼馴染の美咲さんが借りたお金なの?」
「新しい店を出すための事業資金だ。駅前にいい物件が空いて、美咲にとって大きな機会だったんだよ。なのに女一人で会社をやっているってだけで、銀行がなかなか貸してくれなくてさ」
「質問に答えて。あなたは、その借金とどういう関係なの?」
葵が書類へ手を伸ばすと、拓海は一度引っ込めた。それから隠しても仕方がないと思ったのか、三枚をまとめて差し出した。葵は一枚目の上部に記載された金額を見て、数字を読み違えたのではないかと桁を数え直した。
三千八百万円だった。三百八十万円でも、三十八万円でもない。元金に遅延損害金と事務手数料が加算され、請求予定額はさらに増えていた。
「三千八百万円って、どういうこと?」
「だから、店が軌道に乗れば返せるんだよ。美咲は服のデザインもできるし、客だってついている。今は開店費用が重なって、少し厳しいだけなんだ」
「拓海、あなたの名前が連帯保証人の欄にあります。これは間違いなの?」
「間違いじゃない」
壁の時計が十時を告げた。エアコンの風で、食卓に置いた通知書の端が何度も浮き上がった。味噌汁の表面には薄い膜が張り、ピーマン炒めの脂は白く固まり始めていた。
葵は保証契約の日付を確認した。四か月前の四月十五日で、その日は二人の結婚記念日だった。拓海は残業だと言って帰宅せず、葵は予約していたレストランを一人で取り消している。
「四月十五日、あなたは残業だと言ったわね」
「そうだったかな。四か月も前のことなんて覚えてないよ」
「私は覚えています。結婚記念日だったから。私は一人でケーキを食べて、残った半分を翌日の朝食にしました。あなたは、その日に美咲さんの保証人になっていたのね」
「仕方なかったんだよ。契約の都合で、その日しか時間が取れなかったんだ」
「私との約束を取り消して、三千八百万円の連帯保証契約を結ぶことが、どうして仕方のないことになるの?」
拓海は舌打ちをして、冷めた豚肉を箸でつまんだ。口へ運んでから、温めてくれればいいのにと小さくこぼした。葵は電子レンジの前へ立たず、通知書の二枚目を読んだ。
そこには担保物件の住所が記載されていた。見慣れた郵便番号、町名、番地、マンション名、部屋番号まで、すべて現在の住まいと一致している。自宅は拓海が独身時代に購入し、結婚後は二人で住宅ローンを返してきたが、登記上の所有者は拓海一人だった。
「この家を担保に入れたの?」
「俺名義の家なんだから、問題ないだろ」
「私は毎月、住宅ローンと管理費の半分を家計から払っています。それでも相談する必要はないと思ったの?」
「名義は俺だ。それに、店が成功すれば担保なんて外れる。美咲も絶対に迷惑はかけないって言っていた」
「もう返済が滞っています。すでに迷惑はかかっています」
「たった二か月だよ。今を乗り切れば何とかなる。葵だって経理をやっているなら、資金繰りが苦しい時期くらい分かるだろ」
葵は通知書を日付順にそろえた。紙の角を合わせておかないと落ち着かない癖は、こんなときにも変わらなかった。指先は冷えていたが、頭の中では確認すべき項目が一つずつ並び始めていた。
「美咲さんの会社の決算書は見たの? 事業計画書は? 月商はいくらで、粗利益率は何パーセントなの?」
「そんな細かいことまで聞いてないよ。幼馴染を疑うみたいで嫌だろ」
「では、何を根拠に三千八百万円を返せると判断したの?」
「美咲は昔から夢を追いかけてきたんだ。今度こそ成功するって言っていた。困っている人を助けるのに、いちいち数字が必要なのか?」
「必要です。三千八百万円なら、なおさら必要です」
拓海は食卓を手のひらでたたいた。空になりかけたビール缶が倒れ、残っていた液体が通知書の近くまで流れた。葵は書類だけを持ち上げ、濡れない場所へ移した。
「美咲は、俺が助けなかったら店を失っていたんだぞ。昔からの付き合いなのに、見捨てられるわけがないだろ。葵は人の気持ちが分からないのか?」
「では、私たちが家を失う可能性については、どう考えたの?」
「家は失わない。俺と美咲で何とかする」
「それでも足りなかったら?」
「そのときは夫婦で考えればいいだろ。貯金だってあるんだから」
葵は拓海の顔を見た。七百万円を超えた貯蓄は、拓海が家族を守るために積み立てた金ではなく、美咲の失敗を埋めるための金として数えられていた。自分が残業をし、安い食材を選び、古くなったコートを三年着続けて貯めた金まで、拓海の中ではすでに返済原資になっている。
「なぜ、契約する前に私へ話さなかったの?」
拓海は鼻の横をかき、視線をテレビへ向けた。画面では旅番組の出演者が、海辺で焼いた魚を食べて笑っていた。食卓には油の冷えた豚肉と、倒れたビールから広がる苦い匂いだけが残っていた。
「相談したら、葵は絶対に反対しただろ」
葵は、その返事を聞いて書類から手を離した。拓海は騙されて署名したのではなかった。妻が反対すると分かっていたから隠し、契約後の責任だけを夫婦で負わせようとしていたのだ。
葵は立ち上がり、床へ落ちたラップの箱を拾った。味噌汁と炒め物にラップをかけて冷蔵庫へ入れ、拓海が買ってきたコンビニのコロッケも一緒に棚へ置いた。明日の朝に捨てればよいと考えたが、それは食べ物だけのことではなかった。
「明日、私は会社を休みます」
「何でだよ。俺のことで仕事まで休む必要はないだろ」
「確認したいことができたからです。今夜は寝室を使ってください。私は居間で寝ます」
「大げさだな。離婚するとでも言うつもりか?」
拓海は冗談のように笑った。葵は答えず、通知書をスマートフォンで一枚ずつ撮影した。続いて銀行の通帳、住宅ローンの契約書、登記事項証明書を保管している引き出しを確認し、必要なものを仕事用の鞄へ入れた。
拓海はまだ、美咲の店が成功すればすべて解決すると話し続けていた。葵は居間のソファへ薄い毛布を敷き、午前九時から相談できる法律事務所を検索した。窓の外では、終電へ向かう電車の音が遠く響いていた。
午前零時を過ぎても、葵は眠らなかった。家計簿の最後のページを開き、共有財産、婚前の預金、自分名義の口座、毎月の生活費を書き出していく。五年間守ってきた暮らしは、夫が署名した一枚の契約書によって壊れ始めていたが、葵は自分まで一緒に沈むつもりはなかった。




