番外編 うちの後輩はとにかく忙しい~工藤隼人 side~ 後編
後編です~
工藤さん本当に良い人!望は周りの人に恵まれてますね!
ある日を境に、柏木は彼氏の話を全くしなくなった。
代わりに、研究室でモニターと睨めっこしている時間が増えた。
俺が朝来ると既にいて、夜になってもなかなか帰らない。最初のうちは院試に向けて気合を入れているのだろうと思っていた。
でも、どうも違う。スマートフォンが鳴ると、画面を見て、すぐに伏せる。それから、まだ終わらない処理を何度も何度も確認する。
「柏木、最近めちゃくちゃ研究室にいるよね」
「もう研究室に住んでやろうかなって考えてます」
「それはやめときな」
「家賃浮くし」
「シャワーないよ」
「それは困る」
「じゃあ帰りな」
「無理です」
「なんでだよ」
いつも通り笑った。でも、話はそこで終わった。柏木はすぐにモニターへ目を向けた。
俺にも俺の研究があるから作業に集中した。それでも、ふと顔を上げたときに同じ姿勢のままの柏木が目に入ると、気になった。
研究に集中しているときと、画面を見ているだけのときは、少し違う。
「柏木」
「はい」
「今日集中してないね」
「してますけど」
「今五分くらい同じ論文のタイトル見てたけど」
「……英語なんで」
「読めよ」
柏木が笑う。俺は隣に椅子を寄せた。
そして、少し迷ってから聞く。
「例の彼氏と喧嘩でもした?」
「なんでそうなるんすか」
「前、彼氏いるって言ってたからもしかしたらと思って」
「そもそも彼氏いるなんて言いましたっけ」
「嬉しそうに言ってたぞ」
「忘れてください」
「最近話さないから」
「何をですか?」
「彼氏の話」
柏木が黙った。それだけで、全く関係のない話ではなかったのだと理解した。でも、何があったかまでは分からない。
柏木が悪いのか。相手が悪いのか。そもそもどちらかが悪い話なのか。
「別に、喧嘩とかではないです」
「そうか」
それ以上は聞かなかった。
事情も知らずに、どちらかを悪者にはできないし、柏木も話したくはなさそうだったから。
ただ、柏木が少しだけ肩の力を抜いた気がして、それには安心した。
柏木は、分かりやすいやつだと思っていた。でも、ただ嬉しいことを隠すのが下手なだけだったのかもしれない。
困ったことも、笑い話にできるうちは話す。笑えないほど困っているときには、何も言わない。そんなやつなのかもしれない。
俺は開かれたままの論文を指した。
「で、どこまで読んだ?」
「……タイトル」
「そこは正直なんだ」
「英語なんで」
「だから読めよ」
柏木が、少し自然に笑った。その日は、最初の段落から一緒に読んだ。
恋人とのことは分からない。でも、目の前の論文で詰まっているなら、それくらいは俺でも少しくらい手を貸せる。
しばらくして、柏木のスマートフォンを見る顔が前のように戻った気がした。
何があったかは聞かなかった。ただ、返事をしたあと、ちゃんと作業へ戻って集中できるようになっていた。
そんな頃、研究発表を聞いて少し驚いた。話す速度が落ち着いている。前提の説明が増えている。分かりにくいところを、早口で通り過ぎようとしなくなっていた。
「最近、発表上手くなったね」
終わってから声を掛けると、柏木が顔を上げた。
「彼氏に練習付き合ってもらってるんでその成果ですね」
「へえ」
「内容一切分かってないですけど」
「それ逆にいいんじゃない?」
「そうなんすか?」
「専門じゃない人にも伝わるように話せるって大事だし」
柏木は少し考えて頷いた。それから、また口元が緩む。
「あいつ、何も分かんないって言いながら最後までちゃんと聞いてくれるんですよ」
「いいじゃん」
「ここ早かったとか、同じこと二回言ってたとか。結構細かくて」
「助かるね」
「そうなんですよ~。何回やっても付き合ってくれるし」
俺は椅子へ座り直した。少し長くなりそうだった。
「それ、発表の相談?」
「え?」
「惚気?」
柏木が笑った。
「……半々です」
「割合、怪しいけど」
惚気を聞いて安心する日が来るとは思わなかった。でも恋が落ち着いても、院試は難しいし、研究も相変わらず進まない日がある。
「工藤さん、ここ教えてください」
持ってくるノートには、途中までの計算と、何度も書き直した跡があった。俺が教えた問題は、数日後には自分で解けるようになっていた。
軽い調子で文句を言いながらも、柏木はちゃんと積み重ねている。
「俺、院試受かったらちゃんとお礼しますね」
「何のお礼?」
「色々教えてもらったし」
「じゃあ焼肉」
「高」
すぐに返ってきた。その顔を見て、俺は笑った。
柏木の試験当日、俺は自分の作業をしながら何度か時計を見ていた。
もう試験は始まっただろうか。
問題は解けているだろうか。
そろそろ終わる頃か。
受けるのは俺ではないのに、どうしてか落ち着かなかった。
そんな風にそわそわしていると、やがて研究室の扉が開く。
柏木だった。
「おう柏木お疲れ。院試どうだった?」
「聞かないでください」
「駄目だった?」
「分かんないっす」
「じゃあ大丈夫」
「なんの根拠っすか?」
「柏木、本当に駄目な時もっと死んだ顔するから」
柏木が、疲れた顔で笑った。
もちろん、顔で合否が分かるわけではない。でも、あのノートを見ている。分からない問題を持って、何度も相談に来た柏木を知っている。
だから今は、頑張った分だけ疲れて帰ってきたのだと思いたかった。
合格発表の日、用事を済ませて研究室へ戻ると、柏木が勢いよく顔を上げて俺を見た。
「工藤さん!受かりました!」
その瞬間、俺の方まで肩の力が抜けた気がした。
「おめでとう。よく頑張ったじゃん」
「ありがとうございます!工藤さんのおかげです」
「実際に頑張って、最後に試験で結果を残したのは柏木だろ」
「そうですけど」
「教えたこと覚えて、勉強したのも柏木じゃん」
柏木が少し黙る。
「ちゃんと自分の手柄にしなよ」
いつもなら、こいつは自分から褒められに来るくせに。こういうときだけ、妙に遠慮する。
柏木は、照れくさそうに笑った。
「例の彼氏さんには言った?」
「はい。さっき電話しました!今日祝ってくれるらしいんで」
「じゃあ行ってきな」
柏木は、楽しそうに帰宅する準備を始めた。
鞄にしまわれるノートの端が、春よりずっと擦れていた。
最初は軽いやつだと思った。面倒なことは笑って避けるのだろうと。
でも、実際の柏木は違った。
面倒だと言いながら向き合って、分からないと言いながら考える。研究も恋も、こいつなりに一生懸命だった。
「工藤さん、本当にありがとうございました!」
扉の前で、柏木が振り返った。
「どういたしまして。このまま卒論も頑張って」
「え、今それ言います?」
「大事なことだろ」
「今日くらい幸せなまま帰らせてください」
「じゃあ明日から」
「……頑張りま~す」
返事は相変わらず軽い。でも、今はもう、それで判断しない。
扉が閉まる。俺も自分の修士論文へ向き直った。
明日はきっと、どう祝ってもらったのかを聞かされるだろう。
まあ、でもそれも悪くない。
相談でも、惚気でも。椅子を一つ寄せるくらいの時間は、空けておこうと思った。
Fin
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次回は北村利也sideの番外編ストーリーを投稿予定です。
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