地獄 8
NRHO軌道上 環境科学研究機構保有実験棟プラットフォーム『はくちょう3』
かつては『機構』の地球外における学術研究の最前線として友好機関の研究員やらも招いて賑わっていたのだというこの『はくちょう3』も通常の社会の宇宙開発の発展に伴ってその役目を終えて、今では安全かつ秘密裡に処分されるのを待つために宇宙空間を漂うようになって久しい。
その処分計画のためにがっさんが調布に呼ばれたりとなんだかウチとしては非常に馴染み深い宇宙ステーションなわけだが、まさかその最後の大舞台にまで関わることになるとは正直考えていなかった。
何しろ私が宇宙空間に来るのなんてそれこそ80年代ぶりである。
初めて宇宙に来たのが1952年で、最後が1987年……その35年の間は結構な回数来ていたがもはや宇宙飛行士としてはキャリアとブランクがトントンになるくらいの時間が経ってしまっているのだ。
記憶力は悪い方ではないはずなので知識面はあまり問題はないだろうが、反面運動神経は非常に悪い。なんならだいぶ鈍臭いと言っても過言ではないと思う。
本来であれば間違っても有人宇宙飛行プロジェクトのメンバーに選出されるような身体能力はないのだ。
ただし、今回のようなケース……というか過去に私が地球から放り出された時と同じように今回もまたエリート宇宙飛行士では絶対にできない都合がある。
別に大した話ではない。純粋な人間では確実に死んでしまうようなミッションに臨むというだけの話だ。
「リンドウシエラよりサルスベリ 現状の撮影は終了した 不足がなければ解除を進めたいがどうか」
今私が進めているのは『6924』の最も簡単な解析
要するに『解いてみる』ことだ。
そのためにはるばるこんなところまで来ている。
研究室のみんなは調布と父島の8部施設から通信でサポートしてくれているのだが……何しろざっくり38万kmの彼方である。
通信ですら片道で1.3秒のラグが生じるほどの距離ではあるが、いつも一緒にいるみんなとこれほど離れるということもあまりないので気持ちの上での距離はそれ以上に感じてしまう。
私みたいな大婆が寂しがり屋なんて気色の悪い話だが、まあいいだろう。こんな何もない空間でそんなことを気にする者もそうおるまい。
『博士、小笠原です』
おお、通信にがっさんが出てきた。よその人らより話しやすくていい。
『撮影は十分です。健康状態に異常はありますか?』
「今のところは虚脱感と過覚醒の感じがあるかな……ただ私の体調がどの程度参考になるかはわかんないけど」
おそらくは脳やら神経やらに作用しているのだろう。
あいにくと自らの身体の働きを鋭敏に感知できるほど鋭いタイプでもない。
その上サピエンスな方々は死んだり病気になったりするし、怪我も時間が経たないと治りゃしないのだ。真反対の私のデータは参考記録にしかならないのだが
『わかりました。解除を続けてください。くれぐれも気をつけて』
気をつけろと言われてもどう気をつけるかもわからないのにどうしろと……? とは思うがそんな皮肉も通信のタイムラグを考えると億劫なのでちゃんと真面目に進めよう
そもそも何故、私がこんな場所にいるのかといえば端的に言って『根室マン』どものせいである。
私たちが『6924』を調査するための時間は無期限に、と要求していた。
対して『根室マン』は即時の引き渡しを要求
平行線の議論を進める中、話の流れは私たちの調査期間を値切る方向に進んで行った。
というか私の意図を汲み取った諏訪先生と大嶋くんの二人がそういう方向に持っていってくれたのだが、ともかくそのおかげで最終的に私たちは二ヶ月の調査期間を獲得
バカの『根室マン』もやりきったようなホクホク顔で帰っていったわけだ。
ただ四日市理事だけは反発していたようだが、表面上は大幅な妥協をした形になった10部及び九一研に対してこれ以上我を通すべきではなかろうと他の前進派の理事が判断してくれたおかげでどうにか調査期間を確実にすることができた。
これに関しては十河の爺さんや二葉理事はもちろんだが六角理事や五木理事の説得も大きかったらしい。
その後はもうてんやわんやである。
航空部の保有する往還機の手配に現在は所掌部から調布の所属になっている『はくちょう3』を10部で接収大急ぎで必要な資材を揃えて全部がここで合流できたのは残り一週間をきったタイミングであった。
準備を全部整えて許可をもらうために八街理事に連絡をとったら音声のみでもわかるほど顔が引き攣っていた。と、思う。
それでもこの無茶苦茶な計画を八街理事が許可してくれたのは『AGO』の離叛において非常に立場の弱くなった前進派であるということもあるだろうが、そもそも八街理事がこの件において四日市理事についていたのが単なる派閥抗争のためであって8部からすればこの件は他人事でしかないということの表れなのだ。
他人事であれば個の気持ちなどではなく『機構』本来のやり方を選択する。
多大な迷惑をかけてはしまったが、しかし新顔の理事のその座に相応しい心意気を見られたのは悪くなかったのかもしれない
東京都調布市 環境科学研究機構航空宇宙研究所 通信管制室
「解除の第一段階でそれなりの健康被害が出てきているようですね」
『はくちょう3』から送られてくるデータを眺めながら諏訪医師が言う。
千人塚博士本人の自覚症状に対して、実際の影響はかなり大きい。
「博士有害情報汚染だとかには妙に強いですからね……ちょっと早いですけど『イワトガクレ』発令しましょう」
それを受けて小笠原研究員は『プロトコル:イワトガクレ』の発令を決心する。
千人塚博士の持つ事案的特性を秘匿するために設けられた種々の行動手順のうち許可された人員以外を排除するためのものであり、これによって8部のスタッフ及び鞠智研究室のスタッフがこの管制室から追い出されることになるものだ。
『はくちょう3』の制御や通信確保については父島の宇宙センターのスタッフが詳細を知らされないまま行っているので問題はないだろうが、それでも遠く離れた宇宙ステーションに対する情報支援が彼らの仕事である。
専門のスタッフを早々に追い出すということに不安がないといえば嘘になるだろう。だが、この措置は彼らの安全のためのものでもあるのだ
千人塚博士から権限代行を受けている小笠原研究員による『イワトガクレ』発令によって一気に閑散とした管制室内
残っているのは平素通りの千人塚研究室の面々……から片切情報管理員を除いた人員のみである。
「それにしても……見たこともない種類のぱずるをなんであんな簡単に解けるんでしょう?」
送られてくる映像を眺めながら佐伯調査員がこぼす。
千人塚博士の手つきはまるでルービックキューブの達人のそれだ。
「それに関してはまあ……博士だからでしょうな」
答えたのは諏訪医師。よその目が無くなった分この場の空気は先ほどよりだいぶリラックスしている。
「そういえばこの間もまたおもちゃ屋さんのポイントカードが一杯になったって喜んでましたし慣れてるんでしょうね、パズルとかそういうものには」
付け加えた小笠原研究員の言葉にこの場の全員が苦笑を浮かべる。
「テレビゲームにプラモにパズルになんかよくわかんないオモチャ……年の割に人生エンジョイしすぎですね。老人ってもっとこう盆栽とかそういうのにハマるもんじゃないんですかね?」
『大嶋くん、回線開きっぱなしだよ?』
不意にかけられた言葉に大嶋調査員が椅子から転げ落ちる。
船内の様子を写すディスプレイに彼以外の全員が目を向けると解除をもう一段階進めた千人塚博士が『6924』を掲げてカメラに向かってピースサインをしていた。
『私が? 盆栽?』
「あ、いやぁ……」
『続くわけないじゃん! あんな気長な趣味!!』
「あ、そっちなんだ……」
『そんなことよりやっぱりまた新しい面が出てきたから撮影しちゃおう』
基準の形である正二十面体から最初は熊の形、次は鷹……
千人塚研究室の面々も解除にあたる千人塚博士本人ですらも構造がどうなっているのか予想すらできない奇妙な変形機構
その表面に刻まれた複数の文字によるなんらかのメッセージの内容自体は片切管理員による翻訳を待たねば正確なところはわからない。
それでもラテン語で記された文字列が解除を進めるごとに剣呑な内容に変わってきたということくらいはここにいる面々にもなんとなくはわかっている。
残すは最後の形状である魚
撮影を終えて解除を始めた千人塚博士の姿を眺める小笠原研究員は奇妙な胸騒ぎのようなものを感じていた。
なるほど……ネットロア考察サイトには最後の魚がキリスト教徒のシンボルであるイクトゥスと絡めているものがあったがそれは結構いい線いってたってことだろう。
というよりキリスト教の成立自体がこれに絡んだものだったわけだ。
そりゃあ『マーシー教授』からでさえ命懸けで守り通すはずだ。自分たちの宗教における神話の根幹部分の崩壊であり同時に宗教的アイデンティティそのものであるとさえ言えるのだから
「よっしゃ! 完成したよ!!」
非常に強い精神汚染と有害情報による影響こそでているものの、即座に命を奪う類のものではないのは幸いだった。
しかし表面に書いてある言葉を信じるのであればそれも当然というところだろう。
『6924』内部に存在するなにか……書かれた年代によって地獄とも悪魔とも表現されているそれがどうにかして外に出ようとしているらしいからだ。
『雨傘製薬』の実験事故の例もある。本来ならば決して解き放つべきものではないのだろう。
ただここは宇宙だ。
地球上に存在する超常エネルギーの多くは大気層に阻まれて惑星表面上からは微かな放射しかできず、逆に宇宙からの強力な超常エネルギーはヴァン・アレン帯に絡め取られ減衰し散逸していく。
大規模な破壊をもたらすのだとしても私が今いる『はくちょう3』は言うなれば空飛ぶ巨大な粗大ゴミであり乗員も私一人だけである。
まあその場合宇宙空間に生身で放り出されるというなかなか出来ない貴重な体験をすることにはなってしまうが、静代さんが私の意識の位置を捕捉出来ていると言っていたのでそのうち迎えにきてもらえるだろうことを思えばちょっと変わったアクティビティみたいなもんだ。
まあ実験が地球に悪影響を及ぼさない根拠の副作用的な側面で、静代さんのPKもここまでは届かないのが残念ではあるが、そこまで望むのは贅沢がすぎるというものであろう。
何せ『機構』が保有する往還機は地球上から月まで楽々往復できるような代物でありJAXAやNASAの人間からすれば一度でいいから乗ってみたい乗り物なのだ。
そんな良いものをタクシー感覚で使えるのだから一、二週間窒息死し続ける可能性くらい大した問題じゃない。
「がっさん? 聞こえてる?」
返事がない。別に月の影に入ってしまったというわけでもないのだが、宇宙線か何かの影響だろうか?
「ま、そりゃそっか……40万キロの彼方だもんね……」
データさえ取れていれば問題ないし、最悪データが取れていなくても私が記憶している表面の文字だけでも成果としては十分過ぎるほどだろう。
『雨傘製薬』に齎された破壊に関しては今の所類似の兆候は無いようだが……だとすれば『6924』内部に潜む何かが対抗神格性事案か異教の神格性事案みたいなものである可能性もあるか
信仰か畏怖がなければカミサマやらアクマやらみたいなものは最大のパフォーマンスを発揮できないし、そう言ったものを伝播させる強力な搬送波たる精神エネルギーはよほど強力なPK能力者のものでも無い限り電離層で跳ね返されるだろう。
なんなら静代さんばりの強力なPK能力者数百名によって構成されるカルト教団があったとしてもせいぜいが磁気圏界面まで弱々しいエネルギーを飛ばすのがせいぜいである。
こんな環境下において超常エネルギーは非常に希薄だ。
データも根拠もない。なんなら感覚質にすら近いのかもしれないが第四紀大収束以前の世界のような……心を騒つかせるもののない穏やかで、しかし世界から色が一色減ったような……どこか物寂しくさえも感じられるような気持ちになる。
それがこの環境によるものであると言い切るのは研究者としてはあるまじき行為なのだろうが、経験則というのはそれ自体が生物の持つ大きな武器でもあることを思えば思いを巡らせてみるのも悪いことではあるまい。
現状の通信の途絶がとりあえずわかる範囲ではこちら側の機材トラブルではないことだけを確かめたらあとはもうのんびりしているくらいしかすることはない。
幸い8部には優秀な技術者が掃いて捨てるほどいるし、加えて通信に関してとびっきりの人材である片切くんも父島の宇宙センターに出向いてくれているのだからそのうち通信も復旧してくれることだろう。
ふと、手元の『6924』に視線を落としたのは完全に無意識である。
先程までは見つけられていなかったが何やら動かせそうな部分がもう一つあった。
『6924』の精神汚染作用によって靄のかかったような思考の中ではあるが……奇妙な感じがする。
確認のために先程撮影した映像を再生してみると、なるほどやはり見つけられていなかったわけではなさそうだ。
「ってことは……これが真打ってことかな?」
誰にいうでもなく呟きそこに触れようとした私の手を、誰かが掴んだ。
「待ってください!」
私以外誰もいないはずの船内
驚いて振り向くとそこには一人の男が立っていた。
「物部……天獄……?」




