地獄 1
福岡県 北九州市街
「あーぐるじい……満足ぅ……」
「食べ過ぎですって……これからお仕事ですよ?」
がっさんはそんなことを言うが、せっかく福岡まで来たのだ。食べずして何をすると言うのか?
ラーメン、水炊き、もつ鍋、うどん……うん、なんかもう満足したし甲信研に帰っても良い気がする。
「小笠原さん! やばいです! 博士もう満足して帰ろうとしてます!!」
静代さんによるプライバシーの侵害が酷い。
「任せてください!」
そして藤森ちゃんは肩をぶん回している。何をするつもりだろう?
「吐きゃあ少しはシャキッとします! 博士、歯ぁ食いしばってください!」
「待った待った!」
「ストップ! ストーップ!」
「「気持ちはわかりますけど穏便に!!」」
なるほど、暴力か! これだから狂戦士は困る。
「と言うか民間便で来たのってこれが目的だったんですね」
「今更だな……集合時間より半日も早く着くようにしてるんだから明らかに悪意のある犯行だろ」
流石はうちのマッチョツートップの川島くんと大嶋くんだ。私より食べたはずなのに涼しい顔してソフトクリーム食べている。
「良いじゃん! 出張費出てるんだから使わなきゃ損だよ!」
「そ、その……えっと、言いたいことは……そのわか、分かるんです、けど……えっと、あの……全員でく、る必要って……あの、あったんですか?」
「大アリだよ!」
そもそも何故北アルプスの山奥に暮らす私たちが遥々九州までやってきているのか……その理由は二週間前に遡る
長野県大町市 環境科学研究機構甲信研究所 千人塚研究室
アメリカ人やらレイスやら頭のおかしいテロリストやらとどんぱちしていた今年の夏は今や遠く
賛否両論を極めていたオリンピックももはや前衛的すぎる開閉会式の演出くらいしか語られることもなくなった晩秋……
思い返せば自分達のことよりもよくもまあクソ暑い時期にクソ暑いコンクリートジャングルで運動会やって人死が出なかったなぁ……マッチョって凄い。
みたいに過ぎ去ったお祭り騒ぎについて一般的な事を思う程度、対して長くもない時間ではあるものの喉元を過ぎたお茶の熱さなど覚えていられるタイプでは無い私は一生懸命仕事に励んでいた。
三人の煉瓦積みで言うところの一人目が相応しいとの自負を持つ私である。
面倒事が転がっていないことはありがたいのだが、この状況にも慣れて幸せを噛み締める段階はとうに過ぎ去っている。
今はただひたすらに終業時間が愛おしい。
「何バカなことを言ってるんです?」
「なーんにも言ってないよ!」
静代さんが部屋に入ってきたかと思えばそんな言葉を投げかけてきた。
厳しいことは言っているものの、コーヒーを淹れてきてくれているあたりに彼女の心根の優しさが表れているのだろう。
ということでお世辞を言ってあげたんだから良いでしょ?
「最後のそれさえなければよかったんですけどね……真面目に働きましょうよ」
「静代さん、思想・良心の自由は憲法19条で侵害してはならないものって定められてるんだよ? ちゃんと法律も勉強しなね」
「黙秘権はこれを認めないが常套句の『機構』で憲法勉強する意味あります?」
「ないね、ただ刑法とかはある程度知っといて欲しいかも知んないかな……外でお巡りさんに捕まっちゃうと書類が増えて面倒だし」
とはいえそのあたりは静代さんに関しては心配いらないだろう。大嶋くんたちと違って鉄砲や爆弾をおしゃれアイテムかなんかと勘違いしてるタイプではないし、そもそも血の気はそこまで多くない。
一応『機構』の方針として業務に支障がない限りは一般の警察や海保、麻取など各種捜査機関の職務には極力協力するようにとなっている。
職質は素直に受けるし逮捕したいならご自由にどうぞと言うスタンスだ。
どのみちすぐに所管支部統制科が手を回して早ければ一、二時間で釈放されるし報道管制も行うので何ら問題はないからである。
しかし組織運営として問題はなくとも面倒が増えることは誰にとっても歓迎すべきことではないし、私に関しては特にそれが顕著であることは言うまでもない。
こんな仕事をしていれば普段から犯罪みたいなことをしなければならないのは仕方のないことではあるが、極力遵法精神を抱いて過ごして欲しいと言うのは私の偽らざる本音である。
「てわけだから、なんか街中で絡まれても証拠が残る形でぶっ飛ばしたりしないようにね」
「しませんよ!」
「でもムカつく奴の一人や二人や三人や四人や五人や六人やっちゃった事は--」
「ありませんってば! ていうか多いですって!」
ふむ……静代さんであれば証拠の残らない殺人の手法なんていくらでもあると言うのに流石は大正浪漫な大和撫子だ。
それを抜きにしてもこれだけ強力な力を持つ静代さんが力に溺れないタイプというのはありがたい事である。
静代さんとそんな風に和気藹々と過ごしていると、部屋のドアが開いて不吉な人影が入ってきた。
「あ、無理です! 今コロナに罹りました!」
「博士……」
静代さんが信じられないモノを見るような眼を向けてくるが、うちの研究室の総残業時間のうち72%の直接の原因が襲来したのだ。その上舌の根も乾かぬうちに労務管理について文句を言ってくるような奴だ。私に言わせれば悠長に受け入れる方が信じがたい話というモノである。
「なんか年々扱いが酷くなってるような気がするんだけど……」
「所長、この間飲みに行った時人事と所掌監察から残業時間の是正についてばき打ちにされたって言ってましたよね? 私だって別に働きたくないとかそういう意味でも言ってますけどそれだけじゃないと言えばそういう見方だってできないわけじゃないこともないんです。労務管理っていうのはやっぱり甲信研の管理職全員で考えていかなきゃいけない問題だと思いますし、私もかなりちゃんと考えてるんです。やっぱりそもそもの残業時間が少ない研究室からちょっとずつ削るのは効率的とは言えないです。例えば逸ノ城関が20kg痩せるのと炎鵬関が20kg痩せるのじゃやっぱり逸ノ城関が痩せる方が簡単だと思うんですよ。残業時間だってそれと同じでまずは大きな山から崩していくべきだと思うんです。これは老子に出てくる言葉なんですけど--」
「分かった! わぁかったから!! 一旦待って! 話を聞いて!!」
「いやです! 聞いちゃったら手遅れになる! 静代さん、諏訪先生から拘束具借りてきて!!」
こんなんでも直属の上司なわけだし、腐っても『機構』の施設長であり北アルプス重要防護圏の司令官職も兼務している。
職制上聞いたら命に服する義務が生じてしまうのだから早いとこ黙らせるに越した事はない。
「博士……突飛な事言ってるのはひとまず無視しますけど、残業がどうとかそう言う話じゃないみたいですよ?」
「え? そうなの? なんかよくわかんない仕事押し付けようとしてるとかそう言うことでも……」
「ないですね」
「なぁんだ! それならそうと先に言ってくださいよ」
「いや、言おうとしてたじゃない……」
面倒事を持ち込むのでないなら別に手荒な真似をする必要はないし、彼にとってここは古巣でもある。歓迎しようじゃないか!
「何だかなぁ……とりあえずお茶入れてきますね」
「ありがとう。いやぁ静代さんは優しいなぁ」
なんだか含みのある言い方をして所長が椅子に腰をおろした。
「それでどうしたんです? 遊びに来たってんなら付き合いますけどどうせまだ仕事残ってるでしょ?」
「うん、多分今日も時間内には終わらないだろうなって……はぁ」
「いい加減仕事量調整しないと冗談抜きで死にますよ? 物理的に絶対捌けない量じゃないですか」
所長自身の業務量ははっきり言ってとんでもないものである。
そもそも彼の事務処理能力はそんなに高くないのに本来各研究室長や部長に割り振られる膨大な量の仕事を一手に引き受けているからだ。
「まあそうなんだろうけど……みんなにはみんなの仕事に集中して欲しいから」
「心意気は立派だとは思いますけどね、それで所長に倒れられたらみんなが迷惑するんですから」
「うう……返す言葉もない……あ、でも赤須博士や飯島博士にはたまに手伝ってもらったりしてるし……」
「たった二人じゃ焼け石に水でしょうに……」
全くどこで育て方を間違えたのか……いや彼のこのお人好しに関しては多分生来のものだろう。何ならウチにいたころからこういう感じで損しているのは見たことがある。
「……もしどうしても手が回らない時は私にも声かけて下さい。手が空いてたら手伝ってあげますから」
「いや、悪いって!」
「別に事務仕事程度ならいいですよ。悪いと思うんなら妙な案件押し付ける方を減らして下さい」
こちとら超常管理に係る事務処理に関しては旧軍時代からのキャリアだしそもそも前任の海野所長の頃は業務の割り振りも普通に行われていたのだ。
仮に捌かなければいけない量が当時の数倍になった程度なら問題にもならない。
「ぜ……善処します……」
そこは分かったと言い切って欲しかったのだが、まあいいか……
「それで話を戻しますけど何しに来たんです?」
「あ、そうだった! 忘れてた!」
しっかりしろよ……いや、今更か……
「九一研の鞠智博士からこんなん届いてたんだけどなんか聞いてる?」
所長がそう言って差し出してきた端末には共同研究派遣申請書の文字があった。
個体識別番号は89-6924RA……
「ああ! あれか! 聞いてます聞いてます! なんならこっちから頼んでたんですよ」
「それなら受けちゃっていい?」
「お願いします。いやぁもっと先になるかと思ってたんですけど流石は鞠智博士!」
「でも『6924』ってアレだよね? 『リンフォン』とかいうアーティファクト……脅威度は大きいんだろうけど4部系だから専門外なんじゃ……」
実際のところその通りである。
何ならアーティファクトに関しちゃ結構苦手な部類ですらあるがこれに関しては直接調べる必要があるのだ。
「いやちょっと静代さんに関することで調べておきたいんですよ」
「私ですか?」
ちょうど静代さんがお盆に湯呑みを乗せて帰ってきた。
「うん。夏頃に雨傘製薬と喧嘩したの覚えてるでしょ?」
「はい、そりゃまあ」
「そんときにPSIに関する知見を手に入れたじゃない? で、雨傘の連中がそこに至るきっかけになったアーティファクトが『6924』な訳」
「あー……そういえばなんかそんな話もあったなぁ……」
「私とがっさんがそれについて話し始めたら所長すぐ逃げましたからね、あんま覚えてなくても仕方ないですよ」
「う……だって理論物理学は訳わかんないし投影位相幾何学なんて専門外もいいとこだから……」
人に専門外の無茶振りしまくるくせによく言えたもんだ。
「ああ! 『からびやう多様体』に閉じ込められた地獄って奴ですよね! 覚えてます覚えてます!」
「どっかの誰かさんと違って静代さんは勉強熱心だね、私も鼻が高いよ」
「ぐ……えっとそれじゃあ博士が留守の間は小笠原くんが室長代行ってことで大丈夫?」
露骨に話題を逸らしたなぁ……まあいいか
「そうですね……ただ内容によっちゃ結構長めにここを空けるかも知んないんで……」
色々根回ししておかなければだろう。がっさんの優秀さはよく知っているがそれでも単独で室長代行をするとなると些か経験が足りない。
ウチの恒常業務を考えれば真田博士辺りに面倒を見てもらえるように頼んどいた方がいいかもしれない。
いや、モノがモノだけに理論の構築が必要な訳だからがっさんにも色々協力を頼むことになるだろうから真田博士だけじゃ足りないか? ちょっとの間ウチの仕事を持ってもらえる相手を見繕った方がいいかもしれない。
いや、そう考えると双子ちゃんの頭脳も欲しくなってくるし、片切くんの協力も必須だろう……
そうなってくると……うん、なんかめんどくさくなってきた!!
「所長、暫くの間ウチの研究室全員で出張ってできます?」




