野狐禅 11
太平洋戦争開戦前、まだ各国の目の前に転がっているよくある戦争が世界大戦などという大事に至るとは多くの民衆が思ってもいなかった頃
それでも世界各地に重く垂れ込める暗雲の一層濃い場所
1939年の満洲国、満蒙開拓移民団に紛れて海を渡った彼女は新京の地に辿り着いた。
海軍の追手から逃れなし崩し的に海を渡った彼女が、しかし関東軍の影響力の強い国都までやってきたのはこの地にただ一人頼ることのできそうな親戚がいたからに過ぎない。
とはいえ内地人もそれなりに多く、その上目立つ行動を避けなければならない彼女にとっては人探し一つとっても容易な事ではない。
そんな中で彼女はその人生でも最も重要な二つの出会いを果たす。
『顧問』こと春近昌為と彼女が生涯師父と仰ぐことになる霍殿閣の二人だ。
満洲国皇帝愛新覚羅溥儀の近習の二人、軍の目を逃れなければならない彼女にとっては避けるべき相手ではあろう。
だがこの二人との出会いが良くも悪くも彼女の今後の人生を決めたことはまずもって間違いのないことであった。
アメリカ合衆国北マリアナ諸島自治連邦区サイパン島 コーラルリゾートオーシャンホテル
眩しい太陽、色鮮やかな景色に浮かれた空気
何より平素であれば日本人まみれの島内も時節がら観光客などほぼおらずまるで自分たちのために誂えられたかのような観光地に彼女はなるほどひとまずは決着したのだなと小さくため息をついた。
ひとまずの勝利……そういうには些か失ったものは多いが、それでも目的を果たし更には彼女らの目指すものに少し近づくことができたのだ。勝った。そう言ってしまっても良いだろう。
「おう、相棒。どうしたんだ? そんな浮かない顔して」
「セブン……いや楽しんでいるよ? 折角スポンサーが用意してくれたバカンスだからね」
そう返した彼女の言葉に、しかしセブンはまるで内面を見透かしたような表情で肩をすくめる。
「……お姉さんのことか」
「まったく、君に隠し事は出来ないみたいだね」
「あんたがそれを言うかね? だけどまあ今のあんたは分かりやすいよ」
それでもそれ以上踏み込んでこようとしない彼の言葉には居心地の良い穏やかな心根が現れている。
訪れた沈黙、彼女はタバコでも吸おうかと思ったがどうやら部屋に置き忘れてしまったらしいことに気づく
「ほれ、セッターで悪いけど」
「ありがとう」
貰ったタバコに火をつけ、立ち昇る紫煙をぼうっと眺める彼女は知らずのうちに口を開いた。
「なあ、セブン……」
言うべき言葉はいくつもある。それでも彼女の口から溢れでた言葉は--
東京都千代田区環境科学研究機構本部 地下秘匿区画
『レイス』の正体が『トイレの花子さん』こと戦前のPSI能力者宮守花子の妹である宮守雪子であったこと……その情報を得たことだけがおそらく今回私たちが手にした成果だ。
もちろんその過程で捕まえた雨傘の研究員から得た情報や静代さんが神格生事案として随意的能力行使の段階に至ったことも成果と呼べるのかもしれないが、あくまでそれらは棚ぼた的なものであり本来目指していたものとは大きく異なった場所にある。
「と言うわけで、こっちは大敗北もいいとこですよ。ほんとにあの姉妹には関わりたくないもんです」
「そう卑下したものでもあるまいよ。み……君が現場に出てくれていたからこそこの程度の被害で済んだと、私も九重理事も……それに三國理事もそう考えているのだ」
十河の爺さんはそう言ってくれてはいるものの……というか何より
「その三國理事の話ですけど、十河理事は知ってたんですか?」
「知っていたのなら君に伝えていないと思うかね?」
そりゃそうか……とすると三國、九重両名で止まっていた話ということになる。理事二名の同意ということならばこの程度の案件に関しては問題なく進めることができるだろうし、理事会に対しての報告も問題になるレベルの遅れではない。
「……ここ最近の三國理事の動きには私や二葉理事も些か気を揉んではいるのだが、何せな」
高位の神格生事案……おそらく執行部理事としての招聘もかの気儘な神が人類や天の秩序に弓引くことがないようにするための予防措置なのだろう。
立場が思考と行動に方向性を与えるのは人であれ神であれ変わらない。問題があるとすればどちらも個人差が大きいというだけの話だ。
「正直このまま3部とイギリス人で『AGO』を受け持ってもらえるってんなら私としては大歓迎ですけどね」
「はっはっは私としても厄介な案件が減れば非常に有り難くはあるのだがね、そういうわけにもいかないのは君も分かっているだろう?」
「はぁ……でしょうね」
先のイギリス人との会談の後に監視を行なっていた橘中佐の元にやってきたのは『サンタクロースインシデント』で限定的な現実改変能力を手にした所謂『いい子』だと同定されている。
イギリスで出版された世界的大ヒットを果たしたファンタジー小説の設定に準拠する『魔法』を行使する『いい子』は元々は橘中佐率いる監視部隊を退かせるために投入されたらしいが、そこにもう一つの勢力が現れた。『AGO』である。
二人は協力して『AGO』の構成員を捕獲、その際に連中が『機構』職員の大規模勧誘もしくは誘拐を企図していることが判明して……もうそっからは『007』と『ハリーポッター』を組み合わせたような非常にイギリス人好みなアドベンチャーが繰り広げられたそうだ。それ自体は構わない。
問題はその中で橘中佐達3部の動きを隠すために意図的に私たち任務部隊の情報を漏洩させたことと、作戦での使用を目的として4部で脅威度査定中だった『0034-U』を持ち出したことだ。それも任務部隊業務だと偽ってである。
結果として『AGO』前線部隊の状況判断能力を失わしめ、最大の脅威である『AGO0027 トイレの花子さん』を元四宮理事から引き離すことに成功したわけだが、それによって私達『竹槍』は『トイレの花子さん』と『ブキミちゃん』という日本の怪談の二大スターとやり合うことになってしまったわけだ。
被害拡大を防ぐために止むなく非常手段をとったものの、それでも尋常ではない被害が出てしまった。
「ここって会話の録音ってしてます?」
「いや、私達以外には一切知られることはないと思ってくれて構わない」
室内にいるのは私と静代さん、十河の爺さんと隠善のお頭の四人だけ。うん大丈夫そうだ。
「『レイス』と『ニンゲン』に関しては今後重要な役割を担う可能性があるんで意図的に逃しました。それに関しては前に話した『花子さん』からの頼まれごとに関する部分です」
「ふむ……その探しびと本人だったというのであれば仕方あるまい。書類上はあくまで不測の事態ということにしているのだろう?」
「ええ、その辺りは抜かりありません。現地での静代さんへの指示も彼女のESP経由なので誰かに聞かれているという心配もないはずです」
「であればそのまま隠しておいてもらって構わない。あの状況であれば疑う者もおるまいよ」
こっちはあくまでも国内だけの……ざっくり謀の類だ。
「もう一個の方なんですけど……」
ただこっちはなぁ……流石の若様でも怒るかも知んないなぁ……
「花子さんの方もですね、ちょっとだいぶイカれてらっしゃったんでやっつけるんじゃなくってどっか行ってもらったんですよ」
「ふむ……こちらも何か目的があって逃したと?」
「いや、こっちに関しては本当に手に負えなかったんで静代さんのアスポート能力で吹っ飛ばしてもらいまして」
「アスポート……しかし花子さんはテレポートをできるだけの強力PK能力をもっているはずだろう? すぐに戻ってきてしまうのではないかね?」
流石は十河の爺さんだ。強力なPSI同士の戦いでアスポートで相手を吹っ飛ばすことの無意味をよく理解してくれている。
「はい。なんで無視できないだけの敵意と超常戦能力を有していてかつそこが壊滅したとしても破局的終末事態には至らない程度の場所に」
「なるほど……話が見えてきたな……」
非常に苦々しい表情だが、少しだけ嬉しそうなのは彼も『聟島の騒乱』の生き残りだからだろう。『保全財団』というか戦勝国には良い感情を持っていないのだから当然か
「それで、どこにやったんだね?」
「むかーし一緒に行ったアーキュレーター・メサの訓練サイトに……」
「ダルシー基地か……なるほど、最適な場所ではあるだろうが……」
痛快ではあるのだろうが、やったことの重大性との兼ね合いでなんとも言えない表情をしている。
言ってしまえばいきなり戦時下でもない相手国の基地に弾道ミサイルをぶち込むような話なのだ。
『機構』の規定に則るのならばせめて自分たちの施設に送るのが最低限だがそんなことしたら『機構』が受ける被害は尋常なモノではなくなってしまう。
「一応、書類上は想定以上の力でこっちの封鎖を破って勝手にどっかいったって事にはしてあります」
「偽装は可能なのだね?」
「はい。現状では静代さんの能力によるものか花子さんの能力によるものかの区別はつかないはずですし、分かっていないことの方が多いPSIに関することなんで突っつかれてもその通り話せばそれ以上の追求はされないんじゃないかと」
「まあ……うむ、ならばそのまま進めて問題はないだろう」
一応話しておくべきことは話せたので安心していると何者かに袖を引かれた。静代さんだ。
「どうしたの?」
「博士、そんな場当たり的な感じで指示してたんですか?」
「大丈夫だって! 全然誤魔化せる範囲だから!」
どうやら私と十河の爺さんの話を聞いていて不安になってしまったようだ。
「大丈夫ではないが……いやまあ諏訪光司医師の時よりは幾分かマシ……いやあれと比べるのはな」
「あれは……うん、あれはねぇ……」
「それって諏訪先生の話ですか?」
「そうだよ」
正確に言えば諏訪先生が企業の手を離れて『機構』に入るまで……日本と台湾、ロシアの沿海域を行脚していた頃の話である。
大して長い期間でもなかったのにその被害は現代の超常管理体制下最大のものであり超常史に燦然と輝く悪名を残している。
「ええ……いったい何をしたんですか……?」
「せっかくだし見てもらった方が早いかもね、若……十河理事ちょっと思い出してもらって良いです?」
「……ん? ああ分かった」
正直あんまりにも色々なことがありすぎて口で説明するのは面倒臭い。
「あ、じゃあすいません失礼します」
最前線に立っていたのは私だが、総指揮をとっていたのは十河の爺さんだ。彼も当時のことはちゃんと知って--
「うっ……」
静代さんが小さく苦悶の声を上げた。見ると目と鼻から出血している。
静代さんが過負荷……? どういうことだ?
「若様! 何をしたの?!」
「いや……私にも何がなんだか……思考防護は身につけてはいないのだが……」
彼も状況は分かっていないようだ。そもそも思考防護は傍受の妨害、暗号化程度のものであってESPによる思考傍受へのカウンターみたいな力はないはずだ。
「ち、違いまふ……情報量が……」
「情報量……?」
「それに……これは……一体何語なんですか……? 思考が、見たことない形で……」
「あー……そういうことか」
「ふむ、そうなるのか……隠善、手当をしてあげなさい」
「はっ」
「あー……ずびばぜん……」
鼻にティッシュを詰め込まれハンカチで目元を拭う静代さん
「いや、こちらこそ済まなかったね。私もPSIにはあまり詳しくないので予想がつかなかった」
「いえいえぞんなぞんな……」
彼の出自を考えればこうなるのは当然というば当然か……そう考えれば彼はPSIに対する防御能力を生来備えているというわけだ。
真面目な仕事の話を終えたので、その後は雑談の時間だ。
普段の物々しい面会と違ってこんなふうに気軽に会えるのは正直言って嬉しいものだ。
長野県諏訪市 中央自動車道諏訪湖SA下り
あのあと結局3時間ばかり話し込んでしまった。
いざ帰るとなると静代さんに頼むか私の運転か……新幹線という手もあるが……と悩んでいると佳澄さんが送ってくれる事になった。一番快適で安全、おまけに早い。
「私の方が速いですよ! 光より上です!」
「安全性と快適性が終わってんじゃん」
「おわ……ひどい……」
そんなわけで休憩で立ち寄った諏訪湖SAでのんびりしているわけだ。かぼちゃのおやきが実に美味しい。
昔のおやきはもっとボソボソしてて美味しい食べ物というよりは栄養補給のための行動食といった感じだったがこれなら6kgは余裕で食べられる気がする。
「6kgって……絶対無理なんで注文しないでくださいね? 勿体無いですから」
「だね、腹ペコテンションで行動しても良い事ないもんね」
こういうのは一個二個楽しむのがちょうど良いのだ。ちょっと物足りないくらいの方がいい。
「そういえば思い出しますね」
「何を……?」
「ほら、私が初めて本部に行った帰りもここで休憩したじゃないですか」
「あー……はいはい所長と諏訪先生と一緒に行った時ね」
というか本部から甲信研に帰る時には大抵諏訪湖で休憩するのだが……
「あの時博士が言ってくれた話、覚えてますか?」
「覚えてないって言いたいけどね、通じないでしょ? 恥ずかしいなぁ……」
「そんな事ないですよ。すっごいえもでしたよ? それにあのことを覚えてたからこそ私は今の私になれたんです」
「それは神様としてのってこと?」
静代さんは頷いた。彼女が司るのは『人』
神と人対立する二つの概念を内包する神の誕生は三様並立と並ぶ異常事態だ。
「私は人が好きです。人が作ってきたもの、これから人が作るもの……そして人が何をなしていくのか、それを思うこと……その全てが」
「うん」
「だから、一緒に見させてください。人を、人が何をしていくのかを……」
それは彼女が抱いてきたのであろう人類への愛その高らかな宣言
それが何を齎すのか、それは今の私には何もわからない。
それでもその言葉の重みはわかるつもりだ。
「辛いよ? そう思ってこの仕事を続けるのは」
「分かってます。覚悟の上です」
「そっか……うん、そうだろうね」
彼女の思いが、そして有り様が前に進んだことが人類にとって……私たちにとって禍福のいずれであるのかは未だわからない。
それでも、今は彼女の思いを受け入れよう。
少なくともそれ自体は歓迎すべきことではあるだろうから……




