野狐禅 10
静岡県御殿場市 陸上自衛隊東富士演習場
言語かどうかも判別し難い喚き声を上げながら大瀬博士を散々に打ち据えた元四宮理事は、すでにぴくりとも動かなくなった博士の身体を無造作に地面に落とし、中空を眺めへらへらと締まりの無い笑みを浮かべ始めた。
笑顔は歯を剥き出す威嚇の表情から生まれたものである。などと言われることはあるし、緊迫した場での笑顔が相手を威圧することもあるだろう。
だが、その表情を見て早川博士が感じた感覚はそういったものとは明らかに異なる。
例えるのであれば投薬によって完全に使い物にならなくなった特定調査員の見せる表情
感情も理性も取り払われた様は最早人間と呼ぶには値しない
本能も習性も凡そその行動を説明しうる道理が何一つ通用しない事を思えば獣と呼ぶことさえ憚られるようなそれは、今この状況にあっては何よりの恐怖であろう。
未知の手段による身体機能の異常なまでの向上
世界的にも最重要に位置づけられる多数のアーティファクトの保持
そしてそれにより齎された事実上の不死
それらを保ったまま、完全に狂ったのである。
焦点の合わない二つの瞳が自らの方に向けられたとき、早川博士は最早どうにもならないと目を閉じた。
仕事が仕事である。とうに覚悟はできているし殉職者の家族に対して『機構』は考えうるだけの便宜と処置をしてくれる。何も思い残す事はない
「麻痺せよ!!」
早川博士の耳に飛び込んできたのは、しかし狂人の雄叫びでも襲いくる暴力の音でもない。おそらくウェールズあたりの訛りの強いはっきりと力強い女性の声だった。
恐る恐る目を開けてみれば目の前では元四宮理事が立ったまま痙攣している。
状況が掴めず呆然としていると、そのまま元四宮理事の身体が腰の辺りから二つに裂けた。
(いや……斬られたのか?)
「すまない、遅くなった!」
今度は力強く太い男性の日本語
声の方をみれば旧軍の軍人が抜き身の軍刀を携えて立っている。
『砲兵森の幽霊』とは違う。あちらが兵卒であったのに対してこちらは将校、それも日露戦の頃のだいぶ古い軍装だ。
「まだです! すぐにまた出てきます!」
「大丈夫、わかっているとも」
軍人は笑顔を浮かべて返す。それは元四宮理事のみせた狂人の笑顔とは真反対の、見るものに安心感を与える笑顔だ。
穏やかで静かに、しかし裂帛の気迫とはまさにこのことを示すのだろうと言うべきほどの圧をもって何も無い空間に振るわれた軍刀の切先は現れ出た元四宮理事の頸を据え物の如く切り払った。
「カーネル・タチバナ! 斬らないで下さい! キリがない!」
先ほどの女性の声、声のした方向は明らかに上……見てみれば箒に乗ったステレオタイプの魔女が空を飛んでいる。
「ああ、済まない! 次は少し手加減をしよう」
カーネル・タチバナ……タチバナ大佐と言うことか?
早川博士はそう思ったが、そういえば昨日風呂を借りた自衛隊の駐屯地に軍神として祀られている旧軍の軍人の銅像があったことを思い出す。
橘周太陸軍中佐……ルーテナント・カーネルが英語での中佐の正式な呼称だが日常的にはカーネルと呼ばれるらしいと言うことは国際活動人員集合教育で聞いたことがあるな、と早川博士は思い出す。
『クリスマス案件』の多国籍軍動員でも超常管理機関所属の人間はあまり氏階級の堅苦しい呼称を使うことがないので忘れていたが、思い出したとて全く役に立たないこんな場面で思い出すとは、覚悟を決めたつもりでも脳はずっと意地汚く生き残るための術を探してくれていたのだなと小さく苦笑した。
軍神ということであれば神格性事案の類、元四宮理事が離叛した直後に発生したケースでも千人塚博士の元に駆けつけた武甕槌は元四宮理事の出現の兆候に先んじることができていたらしい事を考えれば神格性事案の有する何らかの感覚で動きを察知することができるのだろう。
三部のコネでどうにか動かせたのだという話だが、本来的には人間の事などイナゴ程度にしか考えていない天の神である。
詳しく話を聞く事などまずできなかったろうが、今回は元人間の神様ときているのだ。これが終わった後にインタビューできれば元四宮理事の可能行動の分析とどういったメカニズムでそれらが為されているのかを研究する助けになるはずだ。
「どうやら落ち着いたようだね」
まるでこちらの考えを見透かしたかのような問いに早川博士は些か気が早かったかと気を引き締め直す。
状況は大きく変わったとはいえ、未だ危険な状況であることには変わりないのだ。
「気は長く心は丸く腹立てず己小さく人は大きく……とは私の学んだ流儀の歌だが、まあ大きく構えていたまえ」
橘中佐が構えを取り、空気が変わる。
「すぐに片がつく」
東京都千代田区 環境科学研究機構本部別館12F自販機コーナー
「なるほどね、今回私達は囮みたいなもんだったって話ね」
「本当に申し訳ありません!!」
「待った待った! 別に怒ってるわけじゃないですって!」
色々と頭のこんがらがる話を聞かされた後だ。
ちょっとした感想をポロリとこぼしてしまっただけの話なのだからそんな風に深々と頭を下げられてしまってもこちらが困ってしまう。
それでなくても噂話が大好きな情報本部人員まみれのエリアでのことである。誤解を招くようなことはやめて欲しい物だ。
アメリカとのいざこざ、レイス一味との抗争、それらがようやく後処理まで落ち着いたのだから一連の騒動で起きた事など済んだ事ですと割り切って報告してくれればそれで構わない。
なんなら目の前で深々と頭を下げている佳澄さんなんてそういうタイプの最先鋒だと思っていたのだが……今回のことに対しては何か思うところがあるのかなかなかに憔悴してしまっている。
「ですが……」
「さっきも言いましたけど横紙破りで無茶振りかましてきたのが三國理事だっていうのは直接聞いてますし、9部の方だってあんまり事を荒立てないように情報を隠してたってのもちゃんとわかってます。それらを聞いた後で香澄さんたちを咎めようなんて思いませんよ」
正直三國理事とその配下の神格性事案……橘、広瀬の両軍神の動きは迷惑である。
勝手にイギリス側の半神格的な事案と共同戦線を構築して日本国内を西へ東への大立ち周りの大冒険! みたいな事をされても困るし、執行部理事の権限で私の配下にいる人員にまで迷惑をかけるなんていうのはご勘弁願いたいところなのだ。
結果としていくつか看過できない企図を持っていた『AGO』に関してはその企図のことごとくを粉砕されたわけで、その戦果を思えばそこまで強く文句も言えないというのが正直なところだ。
特に元四宮理事による大瀬博士の勧誘、もしくは誘拐という厄介極まる事態をギリギリのところで防ぎきり、現場にいた大瀬・早川両博士を生きて帰らせたというのはかなりの大戦果であるとともに、私としてもがっさんの恩師である大瀬博士、『ジェットババア』研究の盟友である早川博士両名の無事は素直に嬉しいニュースである。
そこにおいて多大な功績を挙げた香澄さんには感謝こそあれ怒ったりなんてとんでもない話だ。
怒られるべきは杜撰な神様軍団だけであろう。本当に腹立たしい!
「ってわけなんで! 私としてはその辺の済んだ話よりも『AGO』の狙いの方が気になりますよ」
いつまでも柄にもなくウジウジしている香澄さんの空気を変えるためお仕事の話に切り替える。これはこれで私がウジウジしてしまいそうだが仕方あるまい。
「『AGO』の狙い……ですか? むしろ当然の動きのように思いますが……」
「ええ、連中の厄介な部分は多数の強力なアーティファクトを保有しているところです。そう考えれば専門家である大瀬博士を欲しがるのは当然っちゃ当然でしょう。ただ、元四宮理事だって大瀬博士の頑なな部分はよく知ってるはずですし彼の知識や技能を役立てるのが尋常な手段で可能だとはどうしても思えないんですよ」
特に元四宮理事が4部で職員として勤務していた当時二人は直接の先輩後輩という関係性であり、非常に仲が良かったという話だ。
もちろん拷問やら洗脳やらというあらゆる手段は考慮されるべきだろうが、その上で研究者としての能力を無理やり手に入れるなんていうのは現実的な話ではない。
スパイやらなんやらという話であれば必要な情報を引き出すことは不可能ではないだろうが、研究職種は脳の100%がフル稼働していて初めて役に立つ類の能力なのだ。
何か大瀬博士クラスでなければ解き明かせない謎を連中が抱えているのだとしたら……そう考えても彼が快く強力に応じるとは思えないし、早川博士が教えてくれた襲撃当時の大瀬博士の言動も概ね私の予想通りのものだった。
であれば何か大瀬博士を従わせるだけのモノを元四宮理事が持っているのか、それともそもそもなんも考えてはいないのか……
「今となっちゃどうとも言えない話ではあるんですけどね……なんか気持ち悪いんですよ」
「そういうことですか……では私も少し調べてみます」
「……無茶しないでくださいよ? 長野支部の優秀さはよく知ってますけどそれでも支部の情報科がどうこうできるレベルの話ではないですからね?」
「ええ、長野支部で動くとは一言も言っていませんよ?」
なんか色々コネがあるんだろう。それでなくとも情報本部にはかなり顔が効くみたいだし……要するに情報の横流しをしてくれちゃおうって話だろう。その上で調査の方向性にそれとなーく干渉して欲しい情報を得るみたいな
旧軍時代に入り込んでいたイギリスのスパイがそんな感じで情報を私たちから奪っていたことを思い出すなぁ……
「ホント、無理だけはしないでくださいね?」
同 地下110階
「なんかさぁ、エレベーターあんま長いと落ちてってんじゃないかって不安になるよね」
「はぁ……なんていうかあんまり平均がわかんないんですよねえれべーたーって……これって長いんですか?」
「長い長い! 見てほら、100階超えてるよ! もうそろそろブラジル沖あたりに着くんじゃない?」
「あはは、まさかぁ!」
「あー……もうすぐ着きますので」
半笑いの石和調査員が教えてくれた。つってもいつの間に本部はこんなに増築したんだろう? 私の知る限り地下は90階までしかなかったと思うのだが
「しかし……ここまでずっと喋ってましたね」
「失礼な! 人を壊れたラジオみたいに」
「いや、石和さんの言う通りですよ……なんか割とすごい真面目な用事なんですよね?」
静代さんが石和調査員に同意した。
まあ迎えが彼なのと、明らかに通常の手段ではない方法でやってきた施設……
「十河の爺さんに会うってのもまあ真面目な用事に入るんだろうね」
「……どこでそれを?」
「ただの推理だよ。ていうかこんなブラフで表情変わっちゃうのは良くないんじゃない?」
「はぁ……全般が向いてないのは自分が一番よくわかってますよ……任期終えたらSOFに戻る予定ですし」
相変わらず筋肉全開の石和調査員だ。羽場主務直系の彼は戦力としては申し分ないのだろうが、いかんせん全般・直協両業務をこなさねばならない秘書科の仕事には向いているとは言い難いのだろう。
特殊部隊も秘書科も一任期は二年だったはずだから……次の人事異動で甲信研に戻ってくるつもりと言うことか
「そんなら室付でうち来る? マッチョは大歓迎だよ?」
「ははは、大嶋さんのポジション奪うにはまだまだバルクが足りないですよ」
「ああ、まあ彼はでっかいからねぇ」
「ええ、広背筋が北アルプスですから……っと着きました」
回数表示はB110……随分とまあ掘ったもんだなぁ……
ドアが開いた先はやけに開けた空間だ。
ただ見たところ壁に幾つも収納みたいなものがある。あそこに障害構築用の資材が入っているのだろうか? もしくは引き出してそのまま障害に利用できるとかだろうか?
なんにせよネイビーブルーの作業着の集団がその周囲に屯しているところを見るにいざという時の備えは万全ということなのだろう。
顔は隠しているが特殊部隊……というか『百鬼夜行』にしては殺気が薄いし何より防護盾をしっかり体軸に引き寄せて保持している。つまりはちゃんと防護のために持っている感じなので彼らは秘書科の職員だろう。
『百鬼夜行』なら隙あらば相手をブン殴るために腕の方に重さを乗せているはずだ。
「ここって秘書科しか入れない感じ?」
「なぜです?」
「だって警護が秘書科ばっかで特殊部隊いないじゃん。司令部壕みたいな感じなのかなって」
「……はあ、守矢所長も貴方もなんで気づくんですかね?」
石和調査員がハンドサインを送ると秘書科の職員達に小さくリアクションがあった。
「賭けてた?」
「まあ……はい」
「言ってくれればイカサマしたのに」
「別に飲み代なんで良いですよ。それよりこのドアの先です。準備は?」
「そんな気負うほどのことじゃないよ、ね? 静代さん」
「えー……まあ良いです。もう慣れました。大丈夫です」
色々聞きたいことはあるがそれよりも何よりも楽に会えるというのはありがたい。
「そんじゃ、行ってくるね!」




