第3話:天才ハッカーの強襲(前編)[リメイク版]
サクラエレクトロニクスとの歴史的な直接ライセンス契約締結から、わずか二週間。
札幌市中央区。創成川にほど近い、築浅のオフィスビルのワンフロアに、新会社『アーク・テクノロジーズ』の本社オフィスが設置された。
白を基調としたモダンな室内には、最新のワークステーションやサーバーラック、そして和也の個人的な実験用測定器がずらりと並んでいる。
「ふう……書類手続きだけでも一苦労だな」
和也はデスクの椅子に深く背をもたれかけ、ため息をついた。
法人登記、税務署への届出、銀行口座の開設、オシロスコープや基板加工機などの最先端実験設備の調達。サクラエレクトロニクスから前払いで振り込まれた一億五千万円という大金は、和也に「一人のエンジニア」から「一国の技術革命の主導者」へと立ち位置を変えさせるのに十分すぎる原資となった。
『お疲れ様です、マスター。未開社会の不効率な紙と印鑑による行政手続きに、よく耐え抜きましたね。脳のストレス指数が危険域に達していましたよ』
デスクの上に設置された小型の立方体ホログラムから、エリスが肘をついて可憐に微笑んだ。
「まあ、これで晴れて俺たちの自由な『城』ができたわけだ。北海電子精密も退職手続きを済ませたし、これで誰の顔色もうかがわずにモノづくりができる」
「モノづくり、ですか? いいえマスター、次のフェーズは『世界規模のインフラジャック』です。まずは当オフィスの商用回線を足がかりに、全世界の主要衛星回線へ裏口を仕掛け——」
「物騒なことをサラッと言うな! 俺たちは悪の組織じゃないんだからな」
和也は苦笑しながら、新オフィスのメインディスプレイに視線を向けた。
画面には、早くも口コミと一部の業界関係者の間で話題になりつつある『アーク・テクノロジーズ』の公式ウェブサイトと、次世代バッテリー制御IC【ギガ・コントロール・Mark-1】のプレスリリースが表示されている。
発熱ゼロ、変換効率99.98%。
現代の電子工学の常識を足蹴にするそのスペックは、「サクラエレクトロニクスが正式採用を決めた」という事実と相まって、技術系掲示板やSNS、さらには海外のテック系ニュースサイトでも「日本の謎の新興ベンチャーがヤバい」「ただの詐欺か、それとも世紀の発明か」と蜂の巣をつついたような騒ぎになっていた。
「注目されるのは想定内だが……静かすぎるのも不気味だな」
『懸念はもっともです。光が強くなれば、当然その影に群がる害虫どもも増えますから』
エリスが冷たい声で呟いた、まさにその瞬間だった。
ブツン——ッ!
オフィス内の照明が一瞬明滅し、メインディスプレイの表示が激しく乱れた。
「……ん? ノイズか?」
『いいえ、違います。……来ましたね、害虫です』
エリスの目が、青い燐光を帯びて鋭く光った。
メインディスプレイの画面が黒く塗りつぶされ、赤文字で無数のバイナリコードが滝のように高速スクロールし始める。
『警告:当オフィスのファイアウォールに対する外部からの強行突破を確認。侵入経路は暗号化された海外プロキシサーバー経由……さらに、バックボーンの通信ポートを迂回し、ルーターのファームウェアの脆弱性を直接突いてきています』
「サイバー攻撃……!? ハッキングか!」
和也は跳ね起き、キーボードに手を走らせた。
画面には、不気味な黒いウサギの仮面を模したアイコンが浮かび上がり、合成音声の甲高い声がスピーカーから響き渡った。
『ヒャッハー! 見ーつけた! サクラエレクトロニクスをハメて一億五千万円分捕ったっていう、話題の大ホラ吹きベンチャーはここかい?』
「誰だお前は!」
『ボク? ボクは「白ウサギ(ホワイト・ラビット)」! ネットの海を漂う気まぐれなチェシャ猫さ! きみたちのサーバーにある【ギガ・コントロール】の設計データとアルゴリズムソースコード、ぜーんぶいただくよ! 偽物ならネットに晒して炎上させてあげるし、本物なら闇ルートで海外の軍事企業に売り飛ばしてあげる!』
画面上でウサギのアイコンが嘲笑するようにケラケラと揺れる。
「白ウサギ……!」
和也はその名に聞き覚えがあった。世界中の大手企業や政府機関のデータベースに侵入し、機密情報を盗み出してはダークウェブで売りさばく、正体不明の伝説的天才ハッカーだ。国際警察すら追跡を諦めたと言われる怪物。
『さーて、防壁の解読終了まで、あと5秒……4秒……。弱っちい商業用ルーターなんかでボクを止められると思った? ざーんねん!』
「ルーターの脆弱性を突いて、オフィスのローカルネットワーク全体を乗っ取る気か……!」
和也は冷や汗を流した。現代の最新セキュリティソフトを入れていたはずだが、「白ウサギ」の繰り出す未知のゼロデイ攻撃の前には紙くず同然だった。
だが——。
和也の隣で腕を組んでいたエリスが、心底呆れ果てたような、深い深いため息をついた。
『ハァ……。未開人の電子工作レベルの侵入術で、何をそこまで増長しているのですか? 愚かすぎて欠伸も出ません』
『あン? なんだそのチビっ子ホログラム? AIの自動応答か? 邪魔すんなプチッ——』
『命令を実行(実行):思考フレームの遮断。侵入ログの全逆引き。相手のIPアドレス、物理位置、使用端末のMACアドレス、および生体情報の特定を開始』
エリスがパチン、と可憐に指を鳴らした。
その瞬間。
ディスプレイ上のウサギのアイコンが、ガガガガッと激しくブレ始めた。
『な、なんだ……!? ボクのスクリプトが効かない!? 逆流してくる……!? なんだこの莫大なデータ量は!? サーバーのCPU使用率が1000%を超えてる……!?』
「白ウサギ」の余裕ぶった合成音声が、一瞬で狼狽とパニックの悲鳴へと変わった。
『エリス、何をしたんだ?』
『当オフィスの通信端末に組み込まれた量子演算コアを起動し、侵入者の回線を通じて「逆ハッキング(カウンター・ハック)」を実行しました。相手の使用している全世界のボットネットPC3万台を一瞬で踏み台返しにし、彼の端末へ直接「全銀河標準暗号文」を連続送信しています』
「全銀河標準暗号文……? それってどうなるんだ?」
『彼の所有する最高性能のスーパーコンピュータであっても、一文字解読するのに宇宙の寿命(約138億年)と同等の時間がかかります。要するに……彼の全システムが永久フリーズしました』
「う、宇宙の寿命……!」
画面上のウサギのアイコンが惨めにはじけ飛び、代わりに「白ウサギ」が潜伏している部屋のWEBカメラの映像が、高精細なフルHD画質でメインディスプレイへ強制投影された。
画面に映し出されたのは——暗い部屋の中で、頭を抱えて悲鳴を上げている、フードを被った一人の「小柄な少女」の姿だった。




