1 慎一視点
俺が幼い頃の事はよく覚えていない。気付いたら、父はいなく、母は働きづめの生活だった。
「慎一、お芋食べる?」
「母ちゃん、食べる」
何処よりもボロのアパートに住んでいたのは覚えているが、そんな生活の中でも、母は優しかった。俺が幼い頃、令和の今よりも、貧乏な家は多かった。が、俺の家は段違いに貧乏だったと思う。だけれど、母ちゃんがいて、裏のババ様や年の離れた「ゆうにいちゃん」の存在があったから、俺は孤独では無かった。
両親の事情はよくわからなかった。父という存在も知らないし、よその家にはいるけれど、俺の家にはいない存在、位にしか思わなかった。
だから、父がいない事を寂しいと思った事はないが、母が大変そうだとはずっと思っていた。迷惑をかけないようにと思っていたが、母に相手をして欲しいとは思っていたと思う。だから、そんな時にゆうにいちゃんが、『慎一、遊ぶぞー』と家に来てくれるのは嬉しかった。
「かあちゃん、今日、ゆうにいちゃん、くる?」
「今日は、学校やけ、来んやろうねえ」
「かあちゃん、明日はくる?」
「そうやねえ。どうかねえ」
俺は、窓から、ゆうにいちゃんが自転車に乗って来るかと、ずっと待ってた。ゆうにいちゃんの自転車の音は聞き分けられていた、と母から笑われた事もあった。
ちょっと、「キー」っと音が鳴るゆうにいちゃんの自転車。そして、アパートの前で止まると、ドアを二回叩いて、声を掛けながらもう、ドアを開ける。
「慎一、遊びに行くぞ」
俺はもう、ゆうにいちゃんに会いたくて、それだけを楽しみにしてた時があったと思う。
ゆうにいちゃんが俺の父の年の離れた弟というのを知ったのは俺が、小学校にあがって暫くしてからだったから、幼い時はとにかく「大きな優しいゆうにいちゃん」としか分からなかった。父がどうしようもない奴だと知った時よりも、ゆうにいちゃんが本当の兄ちゃんじゃないと知った時の方がショックだったのを覚えているから、おかしなものだ。
ゆうにいちゃんは、今風に言うと、イケメンだった。今でこそ、七十手前のジジイで、髪の毛も少し薄くなったが、百八十センチ近くの長身で、すらっとして、鼻が高く、奥二重の切れ長の目で少し焼けた肌はテレビに出てくる俳優のような人だった。
まあ、お洒落には疎いようで、いつも同じ恰好だったし、髪型もお洒落にしていた感じは無かったが、それでも恰好良かった。
そんな、恰好良い高校生の兄ちゃんに俺はとてもなついていたと思う。優しい兄ちゃんに憧れを持っていたんだろう。そして兄ちゃんはほとんどの休みを俺の子守に来てくれていたのだ。今思うと、よく高校生が幼稚園や保育園に行くような子を相手にしてくれていたと思う。俺のパンツを洗ってくれたのも一度や二度じゃないはずだ。
成人してから、自分が大人になり自分の子供が出来た時に、ゆうにいちゃんの凄さとありがたみを再認識したのだが、ゆうにいちゃんに言っても「忘れた」とか「へへ、そうかあ?」とはぐらかされるだけだった。
幼い俺は、夏休みは兄ちゃんと、海岸に貝捕りに行ったり、裏のババ様の手伝いを一緒にして、果物や野菜を食べさせてもらったり、近所の店で駄菓子とベーゴマをゆうにいちゃんに買って貰って、コマの回し方を教えてもらったりもした。あのコマは今でも引き出しに入っている。
勿論、良い事ばかりではなくて、母ちゃんに言えないような悪い事も教えてもらったけれど、俺は兄ちゃんと一緒にいる時間全部が楽しかった。
ある時、四歳くらいの時だったと思う。俺は、近所の子供と喧嘩をした。悪口を言われて、言い返せず、俺はむしゃくしゃしていたんだと思う。
「おまえ、父ちゃんおらんやろ」
「おまえんとこ、貧乏なんやろ?」
そんな事を言われて、俺は言い返せなかったんだ。家の前で地面に絵を描いて遊んでいたと思うが、その場所にいたくなくて、俺は必死に歩いた。
どんどん歩いて、知らない道に出た。意地悪を言う奴に会いたくなかったし、言い返せない自分も嫌だったし、悔しくて情けなくてとにかく、どこかに行きたかった。
それに、母ちゃんも遊んでくれないし、今日はゆうにいちゃんも来ない。二人の事もちょっと嫌いだ、なんて思ってもう、むしゃくしゃして、とにかくどんどん歩いていたんだと思う。
で、俺は結局迷子になった。気付いた時は自分が何処にいるか分からず、俺は橋のたもとで泣いていた。海の側だったか、川の側だったか、暗かったし場所は覚えていない。
「母ちゃん…ゆうにいちゃん…」
辺鄙な場所にいたんだろう。人も車も通らず、俺は一人、ずっと蹲って泣いていた。暗くなり、街灯も無く、俺は街灯を探してフラフラと歩いたが、田んぼと川しか見えずもう、家の灯りも何も見えなかった。
道端の石の上に腰掛けて、泣き疲れて、ぼーっとしていたと思う。
「母ちゃん、ゆうにいちゃん」
どれくらい泣いたか分からない頃、ぺたん、ぺたん、と音が聞こえた。
泣きはらした目で音がした方を見ると、着物を着た緑色のおねえさんがそこに立っていた。横には大きなもふもふした白い犬がいた。
「あんたが慎一?」
俺は首を傾げた。なんで名前を知っているんだろう?この人は誰だ?こんなに大きい犬、いるの?って、不思議だったのだ。
「あ?違うん?」
そう言って、犬と一緒に遠ざかろうとしたから、俺は慌ててお姉さんに答えた。
「僕、しんいち」
もう、一人になるのは嫌だった。俺が急いで答えると、犬も俺の方を見て匂いを嗅ぐと、お姉さんの方を見て、頷いた。
「あ、やっぱりね。雄三ってヤツから頼まれた。家に連れて帰ってやってっち言われたけん、あんたの家に行くよ」
「ゆうにいちゃん?ゆうにいちゃんが?」
「うん、雄三ってヤツも探しようけどね、私の方が早いけ」
おねえさんがそう言った瞬間、おねえさんはすっと近づいて俺を抱えると、白い犬の上に俺を乗せた。その瞬間、ぐーっと俺の腹が鳴った。
朝食べてから何も食べてない。安心したらお腹がペコペコなのに気付いたのだ。
「コレ、ちょっとだけやる」
お姉さんは自分の食べかけのキュウリを半分に割ると、俺にくれた。
俺はそれを齧ると、涙がまた出てきた。
「泣くなっちゃ。ほら」
お姉さんが俺の涙を着物の袖で拭いてくれて、頬に当たった手は凄く冷たい手だった。泣きすぎた顔には気持ち良くて、俺は、ぺとっと、お姉さんの手を握って離さなかった。
「変な子供やね。怖がられたらどうしようかっち思ったけど。あんたのことも怖がらんしね」
俺は犬の首に抱き着き、姉さんの手も離さなかった。もう一人になるのが嫌だったのだ。その時は意味が分からなかったが、俺の事を「変な子供」と言う姉さんの声は優しかった。
「分かったけ、離し。ちゃんと連れて帰っちゃるけ」
どれくらい経ったか、犬の上でウトウトしてると、姉さんに犬から降ろされた。
「ほら、ついた。あそこがあんたの家やろ?ちゃんと帰るんよ」
はっと顔を上げると、家が見えた。
「ありがと!」
「うん。まあ、礼は雄三に言って。ん?あんた、気に入ったん?そう…。慎一。あんた、何か困ったことがあったらね、海に行き。海で、この子を呼んだらいい。私は河にいつもおるけ」
「え?なんて?」
「あんたを助けてやるっちいった」
「え?」
「キュウリ、持ってこいよ」
「うん、キュウリあげる。分かった」
そう言っていると、「慎一!」と、母さんが俺を呼ぶ声が聞こえた。
「じゃあね」
そういうと、姉さんも犬も消えた。




