5 凪視点
家に帰ると、お母さんがパートに行く時間だった。
「凪、おかえり。早かったのね?具合が悪いとかじゃないんやろ?」
「うん。課長が、有給取ってゆっくりしたら良いって。せっかくだからそうする」
「そ。じゃあ、私、仕事に今から行くから、凪、シマちゃん所にお菓子持ってって。朝、義母さんが友達と門司港行ったっち、お菓子持ってきてくれたんよ。シマちゃんちの分も買って来たんって」
「バナナのお菓子?」
「そう。プリンもあるから早めに食べてっち言ってね。冷蔵庫にあるけん。じゃ、行って来ます」
「分かった、いってらっしゃい」
私がそう言うと、お母さんは仕事に行った。会社に行った娘がすぐに帰って来たのだ。それなのに、何も言わず、詳しくは何も聞かない。
私は仕事着から、普段着に着替えて冷蔵庫に入れてあった、お土産を取り出すと自転車でシマおばちゃんの家へと向かった。
シマおばちゃんの所は歩いて五分。自転車だとすぐに着く。私がゆっくり自転車を漕いでも、あっという間にシマおばちゃんちに着いた。
自転車を車庫に止めて、ピンポーンとインターホンを鳴らす。
「はーい」と返答が聞こえ、袋をインターホン向けながら「凪です。お母さんから、お菓子、持ってきましたー」というと、「あらー、凪ちゃん。今、開ける」と、聞こえて、すぐに玄関が開いた。
「凪ちゃん、久しぶり」
「シマおばさん、こんにちは。コレ、おばあちゃんが門司港行ったお土産って」
「門司港?最近行ってないけど、いいわよねー。ユカおばちゃんもわざわざ私まで、ありがとうっち伝えといて。あ、凪ちゃん、キュウリ、まだあるけど、持っていく?今日、トマトも採ったんやけど、少し、またやろうね」
シマおばちゃんはそう言うと、小さな袋にキュウリとトマトをパンパンに詰めたものを持ってきた。
「お母さんにシソも沢山あるっち言っといて」
「はい、ありがとうございます」
「うん、凪ちゃんまた」
「はい、また」
自転車のかごにキュウリとトマトを乗せて、手を振って自転車に乗ったが、せっかく家を出たのですぐに帰りたくなかった。
三叉路で、左に曲がれば家という所で、私は右に曲がり、そのまま漕ぎ続け海に行く事にした。車があればあっという間に海に着く距離に住んでいるからか、最近はあまり海に行っていない。前はよく行っていたけれど。
そういえば、いつも海に行くと、白い犬がいたな。近くの旅館の犬だろうか?それとも近所の犬が脱走していたのかな。目が隠れてモフモフした犬だった。どこの子だったんだろう?女の人が側にいた気もするけど。よく覚えていない。
海岸に着くと、まだシーズンオフの時期だからか、散歩してる人もいない。早朝や、夕方にはまだ人は多いだろうけれど、こんな変なお昼時の時間は誰もいない。学生は学校だし、社会人は仕事をしている。海に来ているのは私くらいだ。
自転車を降り鍵を掛けると盗む人なんていないだろうけど、一応、籠からキュウリトマトの袋を持って、砂浜に降りる階段に座った。
テトラポットに打ち付ける波を見ると穏やかで、砂浜には波が引いた後が残っていた。これから少しずつ、波が満ちて砂を飲み込んで行くのだろう。
波の音を聞いて潮の香りを感じていたが、私の心はこの海の様にはならず、明日から、どうしようとそればかり考えていた。
私は立ち上がって海の方に向かった。少し波を触ったら、気分が晴れるかもしれない。そう思ったのに、波打ち際まで行くと、何故か、見えない壁のような感じがする。
「ん?あれ?」
海に入れない。いや、入ろうとは思ってはいないけれど、波を触れない。おかしい。足が動かない。
「疲れてんのかな」
もういいや、と思って引き返すと、ふっと体が軽くなり問題なく足は動いた。考えることが多すぎるので、私は深く考えず、キュウリとトマトの袋を置きっぱなしにしていた階段にまた座った。
「これからどうしようかな」
思わず口から言葉が漏れる。空を見る。蒼い。海を見る。青い。
綺麗だな、と思うが、心はこの青の様に透き通ってはいない。考えても仕方がない時は何か食べた方がいいと、お母さんが言っていた。私は袋の中身を見て、トマトを一つ取ると齧った。
少し皮が固いけれど、甘酸っぱくて美味しい。
そういえば、子どもの頃、海で迷った事があった。ウロウロしていて、迷子になるはずもない海岸で、お母さん達の場所が分からなくなったんだ。海岸で遊ぶのに飽きて、松林の方に入り込んでしまったんだ。
『おかあしゃあん、おとうしゃあん』
松林の中で、泣きべそかいて座り込んでいたらその時も白い犬が側にいてくれた。泣きながらも、どうにかお母さん達の所に戻ろうと歩こうとしたら、上手く歩けなくなって、見えない壁にゴンゴンぶつかりながら犬と歩いていたら、海岸に戻れたんだ。
慌てたお母さんとお父さんに抱きしめられたのだけれど、あの犬はいつの間にかいなくなっていたな。
そんな事を思い出しながらトマトをむしゃむしゃと食べていると、気付けば足元を小さな犬がすりっと寄ってきた。
「わ」
もふもふの目が隠れている小さな犬。
私の足にすり寄って甘えてくるけど、近くを見ても誰もいない。逃げ出してきたのかともこもこの首を触るけれど、首輪もしていない。
「あなた、何処の子?もしかして、あの時の白い犬の子供?」
そう言って聞いても私の足元で嬉しそうにしっぽを振っている。
「ちゃんと自分で帰れる?」
そう聞くと、尻尾を嬉しそうに振って、頷いた。トマトの汁が着かないように気を付けていると、犬は袋の中に顔を突っ込んでいた。
「あ。ダメだって」
そう言ったが、一本キュウリを咥えて私を見ている。
「犬はキュウリ食べて問題ないよね?」
犬はよし、と言われたと思ったのか、キュウリをパクリと食べた。
「あ。食べた」
小さな体に良く入るな、という感じで、むしゃむしゃと犬はあっという間に一本食べてしまった。
「食いしん坊さん。大丈夫?」
食べ終わると、私の足にまたスリスリとしてきた。甘えん坊なのかもしれないが、犬の毛を触っていると落ち着いてきた。
「慰めてくれてるの?ありがと」
うだうだと考えても仕方がない。とにかく、私は思った通りにするしかないのだ。そう考えていると、犬が「モン」っと鳴いた。
「モン?ふふ、ワンじゃなくて?可愛い鳴き方。アン、でもワンでもなくて、モンって鳴くんだ」
「モン」
「ふふふ、分かった。君は…モン、モン、言っているから、もんきちと名付けよう。もんきち、ありがとう」
そう言って私がゆっくりともんきちに手を伸ばすと、頭を触らせてくれた。その瞬間、ふわっと、気持ちが軽くなって、不思議と温かい気持ちに包まれた。
「モン、モン」
「すごい、癒し効果かな。可愛い。もっと撫でていい?抱っこは?抱っこはだめ?」
「モン、モン」
私がまた撫でていると、もんきちは私の袖を掴んで、自転車の方を向かせた。
「え?自転車?帰れってこと?」
「モン」
「すごい、会話が成立してる。そうだね、そろそろ帰ろうかな。もんきちも帰らなきゃだよ」
私が頷くと、「モーン」と言って今度は私に飛び掛かって、ポケットをぺしぺしっと叩いた。
「わあ、何々。元気いいね。え、帰れじゃないの?」
余りにぺしぺしするから、ポケットからスマホが飛びだし、私は急いで掴んだ。もんきちは、その掴んだスマホをぺしっと叩いた。
「スマホ、気になるの?みたい?何?」
私がスマホを見せると、スマホにもんきちは頭をつけて、「モン、モン」というと、ぱっと離し、キュウリの袋に顔を突っ込み、一本加えると、「モン」と言って、走り去ってしまった。
「あ、もんきちにキュウリもって行かれた…。自由な子だ」
あっという間に見えなくなったけれど、私の心はずっと軽くなっていた。




