第18話 高田の視界
第三層から戻った翌日、高田から電話があった。
「神代さん、今、少しよいですか」
声の質が、いつもと違った。
落ち着いてはいる。だが、何かを抑えているような、慎重な声だった。
「どうぞ」
「昨日、打ち合わせの帰りに、おかしなものを見ました」
俺は何も言わなかった。
「電車の中で、窓ガラスに光が反射しているように見えた。でも、外を見ると光源がない。隣に座っている人には見えていないようだった。気のせいかと思ったんですが」
俺はゆっくりと息を吸った。
「今日も見えましたか」
間があった。
「……見えました。朝から、ずっと。デスクの角に、青白い光が漂っているように見える。瞬きすると消えるんですが、また現れる」
字義に問いかけた。声には出さず、頭の中で。
高田に、お前が見えているのか。
字義が答えた。
――高田には、別の個体が近づいている。俺ではない。
「高田さん」
「はい」
「その光は、害はないと思います。でも、一度会って話をさせてください」
長い間があった。
「……神代さんは、その光が何か、知っているんですね」
「知っています」
また間があった。
「今日の午後、来ていただけますか。編集部ではなく、外で」
◇
公園のベンチで向き合った。
高田の目は、俺の右肩の辺りを、何度か見た。字義がいる場所だ。
「見えていますか」
「……見えます。あなたの肩の近くに、何かいる」
高田が、眼鏡を外した。レンズを拭く癖。今は拭く必要がないのに、手が動いていた。
「いつから見えるようになったか、分かりますか」
「神代さんの原稿を読み続けてから、だと思います。最初の原稿、第一章を読んだ直後から、何かが変わった気がしていました。でも、見える、とまで言えるようになったのは、第二章を読んでから」
俺は字義に問いかけた。
高田に近づいている個体のことを、お前は知っているか。
字義が答えた。
――俺たちは、優れた物語の光を辿って動く。高田はお前の書いたものを誰より深く読んでいる。その残滓が、高田の中にある。それが、別の個体を引き寄せた。
「高田さん。あなたの中に、俺の書いたものの光の残滓がある。それが、ある存在を引き寄せている」
高田がゆっくりと頷いた。
「その存在は、危険ですか」
「悪意はない。でも、放置すると関係が深まる可能性がある」
「深まると、どうなりますか」
俺は少し間を置いた。
「安藤仁のことを、覚えていますか。大学の同期の」
「名前は聞いたことがあります。昔の話を、少し」
「あいつが今どういう状態か、俺は見てきました。深まりすぎた先の話です」
高田が俺を見た。
「あなたは、深まりすぎていない」
「俺は、名前をつけることから始めた。対話をした。物語で向き合った。だから、今のところ、深まりすぎていない」
「名前をつける、というのは」
俺は字義の光の方を向いた。
「俺の肩の近くにいるのを、字義と呼んでいます。あなたの近くにいる個体にも、あなたが名前をつけることができる。そうすれば、対話ができる」
高田が少し沈黙した。
「私は、その存在と、対話したいんでしょうか」
俺は答えなかった。
高田が自分で考える時間が必要だった。
高田が空を見た。
それから俺を見た。
「神代さん。あなたの第二章は、誰か別の視点が入っていると思っていました。あなたの文体なのに、あなたではない何かの感触がある。それが、この存在のことだったんですね」
「そうです」
「その存在と対話しながら書いた物語が、私が今まで出会ったことのない文章でした」
高田が眼鏡をかけ直した。
「分かりました。名前を考えます」
俺はその言葉の重さを、少しの間、受け取っていた。
「一つだけ言っておきます。名前をつけたら、逃げないでください。向き合い続けることが、たぶん一番大事なことです」
「編集者ですから」
高田が静かに言った。
「向き合い続けることが、仕事です」
公園の木が、風で揺れた。
字義の光が、俺の肩で揺れた。
高田の近くの空気が、僅かに揺れた。
それが、別の個体の返答のように見えた。




