第17話 第三層の地形
高田との打ち合わせは、二時間で終わった。
第三章の構想を話した。路地で書いたノートの内容は、まだ見せなかった。ただ、物語の骨格だけを話した。
高田は一度も手帳を開かなかった。ただ俺の話を聞いていた。
終わり際に、一言だけ言った。
「書いてください」
それだけだった。
いつもの「このクオリティで続けられますか」という確認も、「いつまでに」という期限もなかった。
編集部を出てから、字義に報告した。
「伝わったか」
――伝わった。「書いてください」の重さが。
「高田は無駄な言葉を使わない男だ。何も言わないのが、一番重い言葉だと知っている」
字義が少し間を置いた。
――お前の物語に出てくる人間みたいだ。
俺は少し笑った。
「あの男は、実在する人間の中で、一番物語に近い」
◇
その夜、字義が申し出た。
「……俺の場所を、見せたい」
唐突だった。
「お前の場所というのは」
――俺たちがいる場所。お前が第二層と呼ぶより、もっと深い場所。お前が薬を飲んだ夜に、少しだけ見えたかもしれない場所。
「第三層か」
――お前の言葉でそう呼ぶなら、そう。
「どうやって見せるんだ」
字義が答えるまで時間がかかった。
――これまで、お前は物語の内側に俺を入れてくれた。今度は逆だ。俺の場所に、お前を入れる。危険はないと思う。でも、保証できない。俺が経験したことのない試みだから。
「お前も初めてか」
――初めて。俺たちは、人間を場所に招いたことがない。
「なぜ今、それをしたいんだ」
また長い間があった。
――お前は物語を語るときに、自分が体験していないことも書く。体験していないのに、本物のように書ける。それはなぜか、ずっと考えていた。お前の場所に入って、分かった。物語の内側には、体験を超えた何かがある。俺の場所も、お前が物語で書いた何かに似ている場所だと思う。俺の場所を見れば、お前はもっと遠くまで書けるかもしれない。
俺は少し間を置いた。
「お前のために、ではなく、俺のために見せたいのか」
光が揺れた。
否定でも肯定でもない揺れ方だった。
――俺は、お前に良い物語を書いてほしい。それが俺のためだ。同時に、お前のためでもある。俺たちのためだ、と今は言える。
俺は目を閉じた。
感覚遮断をする。タオルで目を覆い、耳栓を詰め、床に横になる。
これまでとの違いは、字義が「受け手」ではなく「案内役」になることだ。
「俺が戻れなくなることはないか」
――俺が連れて帰る。絶対に。
「その『絶対に』は、どこから来る自信だ」
字義が少し間を置いた。
――お前の物語にある言葉から来ている。主人公が誰かに誓うとき、「絶対に」と言う。俺はお前の物語からその言葉を借りた。
俺は笑った。
布団の上で、一人で笑った。
「分かった。行ってみる」
◇
タオルで目を覆い、耳栓を詰め、横になった。
字義が俺の傍に来た。光が顔の近くにある感触。
それから何かが起きた。
上手く説明できない。
意識が薄れるのでも、眠るのでもない。
俺がいる場所の「手触り」が、変わった。
見える、という言葉は正確ではない。
感じる、の方が近い。
言語になる前の感覚として、「そこにある」ものを受け取る。
広大だった。
宇宙のような、広さ。
だが宇宙と違うのは、それが物理的な空間ではなく、意味の積み重なりで出来ていた。
地層に似ていた。
人類が最初に記号を刻んだ日から今日まで、誰かが何かを表現するたびに生まれた光が、堆積している。一番深い層は、かすかに温かかった。言語になる前の、最初の表現の痕跡。
上に行くほど複雑になる。物語、詩、音楽、絵、数式、すべてが光の地層として重なっている。
その中を、字義が案内した。
字義は、地層の中を泳ぐように動いた。俺はその後を追った。俺自身は動けないのに、視点だけが字義についていく。
あるところで止まった。
字義が示したのは、一つの光の塊だった。
他の光とは違う密度があった。単一の光ではなく、無数の光が螺旋状に絡み合っている。
それが何か、俺には分からなかった。
字義が告げた。
――お前の書いたものだ。今ここにある。
俺は自分の書いたものを、外から、この場所で見た。
感情が言葉になるより先に来た。
小さかった。
地層の全体から見れば、取るに足りない。
だが、確かに光っていた。他の光と絡み合いながら、ここにあった。
字義が告げた。
――俺が初めてお前の光を見たとき、これが見えた。だから来た。
俺は、言葉が出なかった。
第三層を体験したまま、少しずつ、俺の意識が戻ってきた。
体の感覚が戻る。床の硬さ。タオルの重さ。
目を開けると、部屋の天井があった。
字義の光が、俺の顔の近くで揺れていた。
「……見た」
答えるように、光が揺れた。
「俺の書いたものは、あそこにあるのか」
――ある。消えない。お前が忘れても、ここに消えない。
俺は天井を見ながら、目に熱いものが来るのを感じた。
泣く理由が、うまく説明できなかった。
売れなかった。才能がないと言われた。それでも書き続けた三十年が、あの地層の中に、確かに光として存在していた。
誰かに読まれなくても、消えていなかった。
「ありがとう」
光が揺れた。
今夜一番、大きく、長く。




