八話「悪役令嬢の親友ですが、自分の愚かさに耐えられません」
一部刺激の強い描写が含まれます。閲覧の際はご注意ください。
「なんで貴方は!!!」
ふざけるな。
私のこの苦しみをどう扱えばいい。
なぜ運命を受け入れる。
私のナイフをみて、動揺しないの。
なんで理解しているの。
「いいの。貴方なら」
「……」
「私は、幸福よ。おいで、エミリー」
彼女は、微笑んだ。
もういい。
そう思った瞬間。
頭の中から、思考が消え去った。
私は、ナイフのことなんて忘れて彼女の元へ走る。
震える指先から滑り落ちた鉄塊が、乾いた音を立てて石畳を叩いた。
ローズの視線が、ナイフに映る。
次にエミリーへと視線を戻したとき。
すぐ目の前には、眼を血走らせたエミリーがいた。
「あ、ああ……っ!」
王子との約束も、家族の命も、正義も、悪も。
いまは、どうでもいい。
飽和した絶望がエミリーの理性を焼き切り、真っ白な空白へと突き落とす。
この美しい人を。
私の手で殺す。
エミリーはローズに掴みかかった。
そのまま彼女を押し倒す。
馬乗りになり、首に触れた。
月の光は、やけに冷たかった。
「……ごめん」
その言葉が、誰に向けたものなのか自分でも分からなかった。
手は震えていたのに、止める理由はもうどこにもなかった。
家族の顔が浮かぶ。
それでも、もう戻れない。
首に触れた指に、確かな温度が伝わる。
そのときだった。
「やっと、そうしてくれるのね」
ローズは笑っていた。
抵抗も、恐怖もなかった。
まるで、それが当然であるかのように。
「エミリーが選ぶ結末なら……私はそれでいいわ」
「っ!!!!」
声は静かで、優しすぎて。
むしろこちらの方が、壊れていく気がした。
「やめて!!!おかしくなる!!!」
力を込めようとするほど、分からなくなる。
これは救いなのか、それとも呪いなのか。
「違うわ、エミリー。こうやって、首を絞めて」
「……」
「そうぎゅっとよ。長いのは嫌よ。一瞬で強く、ね?」
幼い子供に、教えるように。
ローズは、丁寧に死の舗装を引いていく。
「ああ、エミリー。その涙も、その震えも、全部私のために流してくれているのね」
私の指が喉元に深く沈んでいく。
それは暴力というより、剥き出しの魂で触れられているような錯覚さえ抱かせた。
「有難う、エミリー」
「あ、あ……」
喉の奥から漏れるのは、言葉にならない悲鳴だ。
ナイフを拾うことすら忘れた。
刺せば終わるのに、自らの手のひらで終わらせたいと思った。
そのままの勢いで、月光に照らされたローズの白い首へと両手の力を込める。
指が食い込む。
柔らかな肌の下で、ドクドクと脈打つローズの「生」を掌に感じる。
「ごめ……なさい……ローズ、ごめんなさい……!」
謝罪が漏れた。
だがローズは抵抗しなかった。
喉を圧迫され、酸素が途絶え、顔が赤らんでいく。
それでも彼女の瞳には、かつてないほどの悦びが宿っていた。
「なんでっ!!?なんでなの!!?ローズ!!!」
涙と鼻水でぐちゃぐちゃになったエミリーの顔は、かつての可憐さなど微塵もない。
エミリーの視界は涙で歪み、自分が何をしているのかも、もう分からなかった。
ただ、目の前のこの最愛の人を、どこにも行かせたくなかった。
「もうっ……」
王子たちの脚本にも、滅びゆく国の運命にも、誰の手にも触れさせたくない。
「もういいっ!!!もういい!!!!!!」
これは、これだけは私であってほしい。
魂が濁っていく。
黒く混ざり合っていく。
醜く、必死で、絶望に染まったその顔を見て、ローズは確信する。
ああ、なんて綺麗なのと。
「き……ゅっ……」
肺から空気が失われ、視界がちかちかと爆ぜる。
けれど、ローズの心はかつてないほどの多幸感に満たされていた。
他の誰でもない、私の所有物であったはずの彼女が、今、私の命を所有している。
子犬のように可愛がっていたあの子が、全力で私の生命に消えない傷をつけようとしている。
その事実が激しく興奮した。
遠のく意識の中で、ローズは思う。
この国も、私自身の正論も、すべてはどうでもいい。
私が選んだ唯一の特別が、私を終わらせるためにこれほどまで心を壊してくれた。
エミリー。
貴方じゃなきゃダメなの。
貴方だから、幸せなの。
私、なんて幸福なの。
ねぇ、エミリー。
私、貴方のことを心から愛しているの。
ああ、神様。
今だけは感謝します。
この愛する人と出会わせてくれた幸福に。
「やだやだっやだ……」
私の指が彼女の呼吸を奪うたびに、私自身の肺からも空気が失われていくようだった。
馬乗りになった私の下で、彼女は抵抗ひとつもしなかった。
ただ穏やかに私を見つめている。
その許しに満ちた瞳が、何よりも鋭く私を切り刻んだ。
愛している、愛している。
誰よりも愛している。
心の中で血を吐くように繰り返した。
私は涙で視界を失ったまま、愛しい人の命の灯を、ただひたすらに押し潰し続けた。
「いやっ……」
指先にこもっていた力が、自分でも制御できないほど激しく震えだした。
だめだ、こんなことは。
愛しているのに、なぜ私はこの温もりを消そうとしているのか。
我に返り、弾かれたようにその手を喉元から引き剥がした。
「ローズ、お願い。ごめんなさい。お願い……戻ってきてっ!貴方がいないと私いきていけないっ!!!」
ぐったりと横たわる彼女の胸に耳を当て、絶望的な静寂の中でその鼓動を探した。
「お願い、ローズ!!!」
私の涙が彼女の頬に落ちる。
彼女が小さく喘いだ。
止まっていた呼吸を荒く取り戻すのは同時だった。
圧迫から解放された喉が、ヒュウ、と細く、鋭い音を鳴らす。
直後、遮断されていた酸素が、ひりつくような熱を帯びて肺の奥へと雪崩れ込む。
止まっていた時間が動き出すように、彼女の胸が大きく、そして不自然なほどに波打った。
「ゲホッ……カハッ! ゲホォッ!」
激しい咳とともに、彼女の口から生々しい呼吸の音が漏れ出す。
粘りつくような唾液と、酸素を欲する本能が混じり合う。
湿った音が静寂を切り裂いた。
「私……なんてことをしてしまったの……」
彼女は、自分の首を掻きむしるようにした。
何度も、何度も、壊れたふいごのように必死で空気を啜り上げた。
その濁った音が、私の犯した罪の深さと、彼女がまだここにいるという奇跡。
この同時に突きつけてくる。
「ローズ!!!ローズ!」
空気を求めるたびに鳴るヒリヒリとした呼吸音。
それが、私の耳の奥にこびりついて離れなかった。
私はその不格好な生の音を聞きながら。
ただ、彼女の背中を何度も、何度も、狂ったようにさすり続けた。
「ひっ……」
苦しそうに息をする、彼女の震える背を撫でる。
だが、視線はその首元に吸い寄せられた。
涙で滲む視界の先。
私の手のひらが包み込んでいた場所が、痛々しく赤紫に腫れ上がっている。
それは、彼女が私の絶望をすべて引き受けようとした証拠でもあった。
痕の形に色を変えたその痣は、呪いのようであり。
どこか二人の絆を繋ぎ止める鎖のようにも見えてしまった。
私はその醜い痕跡を隠すように、ボロボロと涙をこぼしながら彼女を抱きしめた。
「ごめん、ローズ。本当にごめんなさい。私はなんてひどいことを」
その絞められた首元には、生々しい痣が鮮明に残っていた。
その事実を直視したとき、もう心の限界だった。
「私は貴方に相応しくない……ごめん。ローズ」
もう耐えられない。
家族が死ぬことも、ローズを殺すことも。
何もかもがたえられない。
でも、私にできることはないの。




