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九話「悪役令嬢の親友ですが、この世界は酷く残酷で」


「もう私には耐えきれない」


この場を去ろう。

そして、全部終わろう。

心のなかで、家族に謝罪した。

立ち去ろうとする私の腕を。

ローズは容赦なく掴み、引き寄せた。


「ローズッ!?」


視界が混濁する。

まだ熱を帯びた彼女の唇が、私の唇を塞いだ。


「っ、んっ……!?」


言葉を奪うための、乱暴で、牙を立てるような接吻。

そこにいるのは、一人の獣だった。

エミリーの涙の味が、二人の口内に広がる。

それは一方的な捕食であり、同時に呪いの共有だった。

この人だけは、離さない。

それはローズの唯一の執念だった。

愛している。

アイシテル。

彼女の舌が、私の躊躇を溶かしていく。

殺そうとした私と、それを受け入れた彼女。

その境界線は、混じり合う吐息の中で、音を立てて崩れ去っていった。


十秒だろうか。

それは永く感じた。

ただ愛を注がれた。

耐えきれず、私は彼女の肩を突き飛ばす。


「やだっ……!」


必死にその熱を引き剥がした。

離れたはずなのに。

口内にはまだ、ローズの鉄のような執着の味が残っている。

喉元を這う彼女の愛の残響。

私はもう、自分の輪郭がどこにあるのかも分からなかった。


「えっ……え?なんで?」


呆然と立ち尽くす。

いま、起きた現実が理解できなかった。

自らの喉元に鮮やかに浮き出た指跡を

ローズは、優しく、慈しむように指先でなぞった。

涙が、首元まで垂れ落ちる。


「……ああ。こんなにも、嬉しい」


その顔は、国の滅亡を企む魔女のようでもあり。

同時に愛する人の種を授かった母性のようでもあった。

彼女の中で、何かが決定的に壊れ、同時に再構築された。

そこにいままでのローズは存在しなかった。

ただ一つ言えるのは、彼女は「幸福」だということ。

それ以外は不要だった。


「ねぇ、エミリー。私幸せよ?」

「……え?」

「貴方が、本気で私を殺そうとした。私に一生消えない傷を与えてくれた。そのことが、観測できるすべてが幸せなの!!!!あぁ!!!私ってなんて幸福なのっ!!!?」


狂っている。

そこには、理知的で理性的な彼女はどこにもいなかった。

誰なの、この人は。

私は、ローズを一体誰に変えてしまったの。


「ねぇ、教えてエミリー。相応しくないなんてどうしてそんな悲しいことをいうの?」

「だって、私……貴方を殺そうとしたのよ!?」


相応しくないに決まっている。

こんな自分は、彼女の傍にいてはいけない。

それなのに、なぜ彼女はこんなにも喜んでいるのだろうか。

叫ぶ私の唇を、彼女の細い指が優しく塞いだ。


「ううん、そのことが狂おしいほどうれしいの」


嘘はいっていない。

真剣な眼差しで、ローズはエミリーを見つめる。

ただその眼には、深淵が渦巻く。

彼女は、心からその愛に浸っているのだ。

ローズは、熱を帯びた声で囁いた。


「教えて、エミリー。私のエミリー。誰が私を殺せといったの。誰が貴方をそこまで追い詰めたの」


もう伝えることしかできない。

後戻りはできないことを理解した。

この先が、断崖だとしても彼女に嘘はつけない。


「王太子殿下だよ……エドワード様」

「……あいつが貴方のことを追い詰めたのね」


ローズの雰囲気が一変する。


「許さない。私のエミリーになんてことを」


その顔には、深い憎しみが込められていた。

ローズはいつだって、嫌悪や侮蔑は向けても怒りをみせることはかなり限られた。

でも今、ローズからあふれ出しているのはあらゆるものを焼き尽くすような純然たる憤怒。


「エミリーをあんな風に壊してしまったこの国も、教会も、あの空っぽな王子も……全部いらないわ。全部壊してやる……っ」


ローズの瞳に宿ったのは、澄み渡った憎悪。

それは、愛する人を泣かせた世界を灰にするための。

静かな宣戦布告だった。

離された唇が熱い。

まだその感触が残っている。

ローズの喉に残った自分の指跡が、月光の下で酷くどす黒く見えた。

ああ……私は、この人を壊してしまった。

ぐちゃぐちゃにしてしまった。

そう心のなかで、強く後悔する。


「ローズ……」


目の前にいるのは、かつての孤高な令嬢ではない。

知性という名の防壁を自ら取り払った彼女は。

剥き出しの憎悪と、歪んだ愛に瞳を濡らした一人の獣だ。

その獣を生み出したのは、紛れもない私なのだ。

そのことを深く自覚した。


私のせいで、この怪物を生んでしまった。

私が、あんなにも美しく、冷徹なまでに正しかった彼女を。

『理性的な華』を踏みつぶしたのだ。


「なぁに……?エミリー?私のエミリー。大好きなエミリー。貴方のその綺麗な声をいっぱい聴かせて?」

「ローズ」

「愛してる、愛してるのエミリーっ!!!」


まるでこの世に私一人しか存在しないかのように愛を囁く。

彼女は熱に浮かされた瞳で、私の事をじっと見つめていた。

その蕩けきった目尻からは、隠しようのない思慕がだだ漏れになっている。


「……っ」


絶望が、甘い毒のように全身を駆け巡る。

その毒は、脳から足まですべてを痺れさせた。

彼女がこれから犯すであろうすべての罪。

この国が焼き払われるその炎。

その全てに、私の指紋がついている。


逃げられない。

拒絶して立ち去ることなど、もう許されない。

私が彼女を壊した。

その感覚は、いまも手のひらに熱となって残っている。

そうであればその破片をすべて拾い集め、最期まで見届ける義務がある。

この瞬間、私は一生、この人から離れられないのだと悟った。

彼女が私を愛し、私が彼女を呪う限り。

この地獄は、永遠に私たちが分かち合う唯一の居場所になる。


「ローズは……これからどうするの?」

「えっ……」


その疑問に、ローズは絶望の顔を浮かべた。

それは、奇妙な空白だった。

何かが、彼女の心の中で致命的に食い違った。

そのことを理解する。


「何でそんなことを聞くの……?」


過去のローズだったら、理路整然とこれから成すべき行動を提示しただろう。

私にとっては、ただの状況確認だった言葉は。


「私には、もう貴方しかいないのに……」


ローズにとっては、自分自身を置き去りにする残酷な言葉に聞こえた。

思考回路は既に消え去った。

ローズという知性は、あの指の熱で既に蒸発している。


「エミリー、私貴方のことを愛しているの……っ」


彼女は、私に懇願し縋りつく。

スカートの生地が、悲鳴をあげた。

彼女の声は、かつての澄んだ鈴の音ではない。

今にも割れてしまいそうな薄い硝子のようだった。

孤高の悪役令嬢、ローズ・クローネンベルグが、私の足元に縋り付いている。

彼女の指先が、私のスカートを震えながら掴んでいた。

その事実に、快楽に似たような動悸を得た。


「捨てないで、お願い……っ!私、貴方の為ならなんでもするから。この国が嫌いなら壊してあげる。あの聖女が疎ましいなら消してあげる。だから……」


彼女が顔を上げた。

完璧に整えられた顔が、今は涙で濡れ、渇愛に歪んでいる。

それは、知性という光を失った獣。

ただの剥き出しの執着だった。


「おいてかないで……」


知性という薄氷の上にいた頃のローズはどこにもいない。

そこにいたのは、目の前の神に平伏する一人の少女。

かつてないほどの魂の安寧を懇願する信者であった。


「私から、自由を奪って。貴方という監獄から、私を追い出さないで……!?私の事を捨てないで!!お願いエミリー……私貴方の傍にいたいの……貴方の傍じゃなきゃ駄目なの……」


心臓が、嫌な音を立てて跳ねた。

彼女にとって、私はもう親友などではない。

自分を壊し、狂わせ、繋ぎ止めるための「楔」なのだ。

同時に命の取捨選択を握る神に近しいもの。

それは、もう愛や親友などという言葉ではくくれない。

私とローズというひとつの答えなのだ。


『貴方の為ならなんでもする』


その言葉の裏にある、数万の民の命。

崩れ去る王国の瓦礫。

私のささいな「拒絶」が。

この人を、そしてこの国を、地獄へ叩き落とすトリガーになる。

それを理解したとき、心の中で何かが崩壊した。


「……ああ」


私は、震える手で彼女の頭を抱き寄せた。

逃げられない。

捨てられるはずがない。

私が、この化け物を産み落とした。

だから一緒に狂おう。

この地獄で、共に踊ろう。

手を繋ぎ、業火で身を焼かれることになっても。

もうどうなってもいい。

壊しちゃえ。


「私もよ。ローズ。私もあなたがいなきゃダメ。貴方がいなきゃ生きていけないの」


エミリーという神の承認は、ローズにとってなによりも心地よい【揺り籠】へと変化した。


「あはっ……」

「私も貴方を愛してる」

「エミリィ……」


その接吻は、何よりも熱く甘美で。

重なり合う唇は、魅惑的でとろけるような毒の味がした。

そしてそれは、宗教画のような静謐な美しさを纏っていた。

地獄に捧げる、血塗られた暗黒のピエタ。 

祈りを捧げるべき唇から漏れたのは、狂喜をより深淵に陥らせる神託だった。


「私のローズ。貴方を一生離さない」


その神の言葉は、ローズの脳の神経を摩耗させ痺れさせた。

ああ、神様。

私、こんなにも幸せでいいの?


「あっ……!!!あはははははあははっっ!!!」


彼女の嬌声は、夜の静寂を切り裂く。

それは、エミリーに捧げる愛の賛美歌。

絶望が始まった。


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