六話「悪役令嬢の親友ですが、奇跡の賞味期限は短命で」
手紙には、林檎の紋章が彩られていた。
懐かしい故郷の匂いがするそれを、優しく丁寧にエミリーは広げた。
『愛するエミリーへ。
学園での生活はどうですか?
ローズ様のお側で粗相はしていませんか。
お父様もお母様も、貴方の手紙を毎日楽しみにしています。
会えないことは悲しいですが、手紙を読むことでその哀しみが薄らいでいます。
最近は不作で少し物騒な噂も聞きます。
ですが勿論我が家は大丈夫ですよ。
貴方が次に帰ってくる時には、貴方の好きな林檎のパイを焼きましょう。
どんな時でも、私たちは貴方の味方であり、貴方の帰りを待っています。
貴方の幸福を何よりも願っています。』
「……帰りたいなぁ」
手紙を読み、両親と家族の愛情を思い出す。
私にとって、今世の家族は温かい居場所であった。
帰るべき場所であり、優しく受け入れてくれる場所。
前世の記憶を持つ私を、彼らはただの「エミリー」として慈しみ、育ててくれた。
その恩と愛情は決して切り離すことはできない。
何度も読み返して端が擦り切れた紙片からは、香りが漂う。
微かに故郷の土の匂いと、焼き立ての菓子の甘い匂いがするような気がした。
気のせいでもそう感じることが、幸福におもった。
「私も会いたいよ」
幸い、ローズへの婚約破棄は両親にとって拒絶すべき出来事ではなかったようだ。
ローズへの婚約破棄が報じられた際も、彼らが送ってきたのは叱責ではなかった。
「そんな時だからこそ、貴方が支えてあげなさい」という。
どこまでも真っ直ぐで献身的な言葉だった。
「ふふっ……」
その温かさに触れるたび、視界が滲む。
胸元に忍ばせた手紙の感触が、今の私を繋ぎ止める唯一の錨。
けれど、その手紙に書かれた「温かな日常」はもうここにはない。
今の王都の狂気とはあまりにもかけ離れていて、私は眩暈のような吐き気を覚える。
その日、王都は【奇跡】に酔いしれていた。
数日前まで、広場に漂っていたのは死の静寂。
そして腐敗しゆく国への諦念だったはずだ。
しかし今、人々は興奮していた。
「殿下万歳っ!!!!」
「聖女様に感謝をっ!!!」
喉が枯れるほどの歓声が石畳を揺らしている。
王城の巨大な鉄扉が、重々しい音を立てて左右に開かれた。
「開いたぞぉ!!!!」
「これで救われるぅ!!!」
現れたのは、黄金の装飾が施された数台の荷馬車。
積み上げられているのは、もちろん食料。
これまでは「万が一の備え」として厳重に管理されていたはずのそれ。
王家直轄の備蓄小麦だ。
加えて同様のことを【聖教会】もおこなった。
「これより、聖女リリア様とエドワード殿下のご慈悲に基づき!すべての民に等しくパンを分かち合う!」
騎士の声が響き渡る。
人だかりが波のように揺れた。
人々は争うように手を伸ばし、配られる小麦の袋を抱きしめる。
「落ち着け!!!食料はまだある!!!」
「俺のものだ!!!!」
ある者はその場で生に近いパンをかじる。
ある者は「神の奇跡だ」と叫びながら涙を流して膝をついた。
広場の中央。
一段高い演壇には、まばゆいばかりの純白を纏った【聖女】が立っていた。
彼女が優雅に手を振るたびに。
民衆は狂信的な熱狂をもってそれに応える。
まるでオーディエンスだ。
舞台の聖女とその隣に立つ英雄には、多くの観客が群がった。
「みなさん、もう安心です! 誰かが独り占めする時代は終わりました。愛を持って分け合えば、神は必ず私たちを見捨てません!」
その隣で、エドワード王子が満足げに頷いている。
彼にとって、この光景こそが理想だった。
それは、「正しい台本」であり「美しい物語」なのだ。
苦しむ民が笑い、聖女が慈愛を振りまいた。
王子がそれを承認する。
そこに、来月の在庫計算も、物流の破壊も、種籾の不足も。
そういった現実的な懸念は存在しない。
彼が見ているのは目の前の笑顔というくだらない『結果』だけ。
その背後で急速に削り取られてゆく国家の寿命には、一片の視線も送っていなかった。
いや見えていたのに、無視したというべきなのだろう。
馬鹿な私でも気が付くのだから。
喧騒から少し離れた路地の影で、その光景を眺めていた。
隣に立つローズは、豪奢な扇で口元を隠している。
その瞳には、一欠片の感動も、怒りも宿っていない。
どうでもいい。
「ふぁぁ……」
ただ、三流の喜劇を鑑賞する観客のような、冷ややかな退屈だけがあった。
「ねえ、エミリー。あれを見てどう思うかしら?貴方の感想が聞きたいわ」
ローズが静かに問いかけてくる。
私は、配られたパンを貪る子供と、それを「奇跡」と崇める親たちの姿をじっと見た。
胃のあたりが重くなるのを感じた。
腹の奥底からなにかがこみ上げそうだ。
「……狂っている、と思うよ。あのお米も小麦も、本来は冬を越すための、文字通り最後の命綱だったはずなのに。いまそれを使い果たしてどうするの……これじゃただの先送り……」
そう、まだ本来食料の枯渇するべき飢饉や冬という時期ではない。
財政や、管理の不足で現状がある。
だがその現状が既に崖であれば。
その先にあるのはなんなのだろうか。
「ふふ、正解よ。わたしのかわいいエミリー」
「ちょ……」
「いいじゃない、キスもいいわよ?相手もいないし」
「いまはちょっと……」
微笑みながら、ローズは私の髪を優しく梳いた。
顔を真っ赤にしても、ローズはそれを続ける。
「あれは『富の分配』ではないわ。いわばただの『前借りの浪費』。明日食べるはずだったパンを、今日のパーティのために使い果たしているだけ。」
歓喜して食料を受け取る民衆を、ローズは呆れた目で見つめた。
「そんなこともわからないのね」と。
口には出さないが、彼女は国の腐敗ではなく国民の堕落にもかなり落胆していたはずだ。
「……でも見て。民衆はリリアを聖女と呼び、私を冷酷な魔女だと罵った」
「ローズ……」
私は、この時どんな言葉をかければいいのかわからなかった。
夜通し真剣な顔で、流通や食料の推移といった資料を見つめていた彼女を知っているから。
「感情というものは、これほどまでに人間を愚かにするのね。……これでは獣と全く区別がつかないわ。見世物小屋はどこかしら?」
そのとき、一人の男が私たちの姿に気づいた。
男の手には、教会の刻印が入った最高級の葡萄酒の瓶が握られている。
聖職者たちが秘匿していた聖なる酒。
それまでもが、リリアの命令一つで街に放流されていたのだ。
「おっ……おい!!!!!!」
葡萄酒と汗と興奮が混じったような匂いが鼻をつく。
「あそこにいるのは……クローネンベルグ家の令嬢じゃないか!!!!おい魔女がいるぞ!!!」
男の叫びに、周囲の視線が突き刺さる。
私はそのことに気が付いて、ローズを一歩下がらせる。
「ローズ!!!!下がって!!!」
それまでは王家への不満をローズに投影していた民衆がいた。
停滞した現状を、厳しく指摘するリアリスト。
それが、いままでのローズの評価。
だが、今の彼らは「施し」によって歪な万能感に浸っていた。
強者から奪い、自分たちに分け与えられたという事実。
それらが、彼らの倫理観を一層歪めていた。
彼らは、大声でまくしたてる。
「冷血女! お前が隠していた食料も、リリア様がすべて暴いてくださったぞ!」
「そうだ! 選別なんて必要なかったんだ。愛さえあれば、こうしてパンは手に入る!」
「跪けよ、魔女! これが神の、愛の勝利だ!」
罵声とともに、誰かが食べかけのパンの塊を投げつけた。
ローズの美しいドレスの裾に、泥のついたパンが当たる。
「あら?」
「貴方たち!!!!!」
私はカッと頭に血が上り、敵の前に出ようとした。
こんなにも美しく理性的な人を穢すなんて許せない。
その怒りに、男は怯んだ。
酔っ払い上気した顔で、男はよろめく。
「な、なんだぁ……文句でもあんのか?」
けれど、彼女の細い指が私の肩を優しく制した。
「いいのよ、エミリー。放っておきなさい」
ローズは、ドレスの汚れを気にする素振りも見せなかった。
ただ優雅に微笑んだ。
その微笑みは、先ほどリリアが見せた慈愛とは正反対だった。
それは絶対的な拒絶であり、憐れむような憐憫を含んでいる。
「彼らは今、人生で一番幸せな瞬間を過ごしているのだもの。邪魔しちゃ駄目よ」
その言葉には、為政者としての畏怖があり。
「……これから訪れる地獄が、自分たちの歓喜によって招かれたものだと気づくまでの……そんなほんのわずかな猶予だわ。それを邪魔するなんて、悪趣味すぎるでしょう?第一私の趣味ではないもの」
傲慢とすらいえる恐怖を与えた。
ローズの言葉通り、奇跡の輝きはあまりにも眩しかった。
それゆえに、盲目になることには誰も気づけないほどに。
「魔女だっ!!!!」
「逃げろ!!!!!」
「……時間の無駄ね」
教会から提供された資産も、王家の備蓄も。
数万の民が一度に浪費すれば数週間も持たない。
分配のルールを無視した無秩序な理想論。
それは「必要な者」ではなく「欲するもの」から順にパンを渡していくというもの。
そんなもの、長く持つはずがない。
リリアの統治は酷く杜撰だった。
それは、国という巨大な船の底を。
薪にするために剥がして燃やしているような愚行。
「楽しくて素敵ね、悩まないって素敵ね。今が良ければいいじゃない。幸福であれば、楽なんでしょう?」
「……」
「でもいいの、私にはどうでもいいから」
今は暖かくても、船はやがて沈む。
そして沈み始めたとき、人々は真っ先に第三者を責める。
「自分たちを甘やかした聖母」ではなく、「警告を発していた賢者」を恨むのだ。
自分たちの愚かさを認めるよりも。
誰かを悪魔に仕立て上げる方が、ずっと容易だから。
「ローズ、大丈夫。私がずっと一緒にいるからね」
それでも、私はこの人と一緒にいることを心に決めている。
ローズは、その言葉に安堵したように目を細めた。
「うん、帰りましょう。エミリー。……それにしてもいい匂いね」
「いい匂い?パンの匂いかな?」
「いいえ?」
にこやかな笑みを、ローズはエミリーに向ける。
「果物が腐り落ちる。死に際の花のような。そんな……甘い匂いがするわ」
ローズは私の手を引いた。
狂乱の王都を背に、私たちは静かに歩き出す。
この歓声が絶叫に変わるまで、おそらく一か月もかからないだろう。
そのとき、この国は本当の意味で。
ローズ・クローネンベルグという「盾」を失った代償を支払うことになるのだ。
奇跡の賞味期限は、ローズの予言通り、あまりにも短かった。




