五話「悪役令嬢の親友ですが、婚約破棄はテンプレで」
「お待ちください、殿下! その決定の前に、どうか……虐げられた民たちの『涙』を聞いてはいただけないでしょうか」
扉の向こうから現れたのは、眩いばかりの純白を纏ったリリアだった。
彼女が歩を進めるたび、会議室の重苦しい空気は霧散する。
代わりに甘ったるい花の香りと下らない「救済」の予感が満ちていく。
「リリア……。なぜここに?」
王子の声が、一段と優しく、華やかに響く。
リリアは王子の御前で深く膝をつき、祈るように両手を胸元で組んだ。
その大きな瞳には、今にもこぼれ落ちそうなほど清らかな涙が溜まっている。
「私は見て参りました。街角で、最後の一切れのパンを分け合い、飢えに震えながらも神に祈る家族の姿を」
「それは……」
「……それなのに、あるものは『効率』や『予算』という冷たい言葉だけで、彼らの命を切り捨てようとしています。あまりにも、あまりにも残酷です!」
リリアの声は震えていた。
だが、それは弱さゆえではない。
自らの正義を疑わない者だけが持つ、凶器のような純粋さだ。
狂いは確かに、この会議を蝕んでいた。
「殿下、愛があれば奇跡は起きます。備蓄庫の鍵を開け、すべてを民に委ねます。神は、分け合う心を持つ者にこそ、明日の糧を授けてくださるのです。どうか……冷徹な知性ではなく、温かな愛でこの国を導いてください!」
会議室のあちこちから、すすり泣くような吐息が漏れた。
彼女の言葉には、統計も、物流の計算も、裏付けも何一つない。
その備蓄庫がなくなったらどうするのだろう。
教会の持つ富は、確かに莫大だろう。
だがそれがいつまで持つ。
どこまで配り切れる。
再び、飢えが襲ったとき。
民衆はどうなるか。
彼女はそれを理解できているのだろうか。
「……ちっ」
軽い軽いただの、願望。
物理的な限界を無視したその陳情。
しかし、王子の「空っぽな心」にはこの上なく心地よく響いた。
王子は椅子から立ち上がり、跪くリリアに歩み寄る。
「……ああ。君こそが、この国の真理を語っている」
その光景は、一枚の宗教画のように美しかった。
だが私の隣で、ローズの唇が、見たこともないほど冷たく、鋭く歪んだ。
そのことを私は見逃さなかった。
「私は決意した。聖女リリアこそが、この国の欠けた心を埋める唯一の光だ。彼女と手を取り合い、愛に満ちた統治を行うことこそが、神が私に与えた使命であると……これは確信だ。みんな祝福してくれないだろうか」
彼の声は、どの旋律よりも美しく、慈悲深く響いた。
「おぉおお!!!」
「素晴らしい!!!」
誰もがその響きに陶酔し、聖なる婚姻を祝福しようとしている。
周囲の歓声が、耳を塞ぎたくなるほど不快な不協和音に聞こえる。
だが、私の隣で、ローズの指先がピクリと跳ねた。
「……ふふ、あははははっ!」
「!!?」
激しく震えた会議室に、彼女の乾いた笑い声が突き刺さる。
それは不敬などという言葉では到底足りない。
神をも恐れぬ嘲笑だった。
この喜劇を、心から愉悦に感じていた。
「ローズ!!?」
「ひぃいぃ!!!」
「魔女だ……」
「赤い薔薇の魔女……」
その笑い声を聞いて、エドワードは目を大きく見開く。
「素敵だわ、殿下」
乾いた拍手が、静まり返った部屋に鋭く突き刺さった。
「空洞に風が吹き込んで、ようやく愛という音色を奏で始めたのね。空っぽの空洞にはよく響くわ」
リリアは、それに反論した。
「いいのですよローズ様。貴方には見えないのでしょう?統計や数字という小さな箱の中に閉じこもっていては、奇跡の輝きは眩しすぎますものね」
「なに……?」
「貴方の冷酷さは、きっとこの国を守ろうとした『不器用な愛』の形だったのでしょう」
「不器用な愛……?笑えるわね……?」
その純粋までの善意に、ローズは吐き気を催す邪悪をみた。
だが、その言葉は「善」には伝わらない。
「ふふっ……でも、もう大丈夫。これからは私が、貴方が切り捨てようとした小さな命まで、すべて抱きしめて差し上げますわ。貴方は傲慢すぎたのです。ですがそれは……きっと神の導きによって癒されます」
「……軽い頭で、言葉遊びできるのが楽しい?」
「なっ……!?」
「私が傲慢なら。……きっと貴方たちは怠慢ね?」
「私の成していることを、怠慢と呼ぶのか……君は」
ローズは誘うように目を細め、ゆっくりと右手を掲げた。
指の間をこぼれ落ちる髪が、微かな香水の香りを周囲に振りまく。
「思考することを放棄し、奇跡という名のギャンブルに国の命運を賭ける。それを怠慢と言わずして何と呼ぶのかしら?チップは、国民の命?」
露わになったその瞳には、射すくめるような鋭い光が宿っていた。
私は、周囲をちらりと見渡す。
数人だけ、顔を青くする実務派の役人の顔がみえる。
彼らはローズに見捨てられたことに気づき、絶望していた。
頭を抱えて、苦し気な表情を浮かべている。
「しっかり気をつけて?その愛は、その光は、この国を滅ぼす破滅……かもしれないわよ?」
ローズは、机の下で私の手を、痛いほどに強く握りしめた。
その手はやはり、冷たく震えている。
怒りなのか、あるいは、あまりにも完璧な「滅びの予兆」を目にした悦びなのか。
王子は、彼女の嘲笑の意味さえ理解できていない。
ただ完璧な顔のまま、ローズの言葉に怯えを持っていた。
「ああ、やはり……私は君のその理念、思想には耐えきれそうにない。もううんざりだ。……やはりあれは神の啓示だった」
王子がゆっくりと、隣に立つ聖女リリアの手を取った。
その動作ひとつをとっても、洗練された役者のように美しい。
「ローズ・クローネンベルグ。君との婚約を、本日この場を以て解消することを決断した。これは王太子としての決定だ」
彼の声は、静謐な森に響く鐘の音のように澄み渡っていた。
憎悪も、軽蔑もない。
ただ「正しいことをしている」という透明な響き。
それだけが会議室の壁に反響し、重鎮たちの心を震わせる。
「君の知性は鋭すぎる。それは、愛と祈りが必要なこの国にとって、あまりにも冷たく、鋭利な刃。……リリアが慈悲によって私に教えてくれた。この国を救うのは選別ではない。尊く、等しく注がれる慈愛なのだと。ゆえに、私は彼女を正妃に迎え、君をこの任から解く」
王子は満足げに頷いた。
まるで、難解なパズルの最後のピースをはめた子供のような純粋な無能の輝き。
私は、隣に座るローズを見た。
彼女の顔からは、一切の感情が消えていた。
「……そう。それが貴方の出した『答え』なのね、殿下」
ローズはゆっくりと立ち上がった。
その瞬間、王子の放つ偽物のカリスマを塗りつぶすような圧が場を支配する。
「おめでとう、リリア。心から祝福するわ。貴方はようやく、望み通りこの国の『心』と『愛』を手に入れた。……そして、私はようやく、この国を『守る』という、退屈な義務から解放されたの」
ローズの口元が、三日月のように歪んだ。
私の手を握る彼女の指先が、微かに熱を帯びて震えている。
「ありがとう」
それは絶望ではなかった。
枷を外された猛獣が、獲物を前にして覚える愉悦の震えだった。
「さあ、エミリー。帰りましょう。……ここから先は、脚本のない本当の地獄が始まるわよ」
後ろで王子と聖女が民衆の歓声に包まれる中。
私たちは振り返ることなく、腐り落ちる王城を後にした。
その足取りは、処刑台に向かう罪人よりもずっと……自由で、軽やかだった。




