第4話 返事がない
葬儀は身内だけで、参列者も少なく、母の最期を見送るには、あまりにも小さな葬儀だった。
事件か事故か、その判断がつく前だったから、里奈は母を見送ってからも、どこか落ち着かなかった。
それでも、火葬を終えたとき、里奈はようやく母が本当にいなくなったのだと実感した。
警察から呼び出されたのは、母が死んでから十日後だった。
里奈は、何を聞かれるのか分かっていた。
だからこそ、怖かった。
「どうぞ」
案内された部屋には、以前の刑事がいた。
「座ってください」
「はい」
机の上には、薄いファイルが一冊置かれていた。
「お母さまの件ですが、捜査はほぼ終わりました」
里奈は膝の上で手を握った。
「……はい」
「結論から言います」
刑事がファイルを閉じる。
「事件性はありません」
里奈は、すぐには意味を理解できなかった。
「……え?」
「事故です」
「本当に……?」
「はい」
肩から力が抜けた。
けれど、喜ぶこともできなかった。
「お母さまは転倒した際に頭部を強く打ち、その後、持病の急激な悪化が重なったと考えられます」
「薬を飲んでなかったことも……?」
「影響した可能性はあります。ただ、それだけが直接の死因だったということではありません」
刑事は淡々と説明した。
「お母さま自身が薬を飲まなかった理由も、あなたが飲ませなかったという証拠もありません」
「……はい」
「それから、もう一つ」
刑事は一枚の紙を取り出した。
「高橋さんから話を聞きました」
里奈は顔を上げた。
「お母さまは、以前から薬を飲み忘れることがあったそうです」
「……そうです」
「そして、そのたびにあなたが確認していた」
「はい」
「だから、あなたが意図的に薬を飲ませなかったという可能性はないと判断しました」
里奈は俯いた。
「私……」
「はい」
「母に死んでほしいって言いました」
「それは事実ですね」
「はい」
「でも、言葉と行動は別です」
刑事はそう言った。
「あなたは家を出た。それは事実です。でも、お母さまを殺したわけではない」
「……」
「あなたに罪を問うことはありません。」
その言葉を聞いた瞬間。
里奈の目から涙が落ちた。
「……ごめんなさい。」
刑事は少し困ったように笑った。
「謝る必要もありませんよ」
「でも……」
「最後に喧嘩をしたことまで、あなたの罪にはなりません」
里奈は何度も頷いた。
けれど、胸の奥に残っているものまでは消えなかった。
──────
家へ帰る途中、里奈はコンビニに寄った。
無意識に、プリンの棚を見た。
手が止まった。
母が好きだったもの。
いつも買うと、
「またこんなの買ってきて」
と言った。
でも、食べていた。
里奈は一つ手に取った。
しばらく見つめてから、棚へ戻した。
「……もういらないよね」
自分に言い聞かせるように呟いた。
──────
家に戻ると、佳代がいた。
「おかえりなさい」
「高橋さん、どうして?」
「少し片付けをと思って」
「もう仕事じゃないですよね」
「そうですね」
佳代は笑った。
「でも、最後までやっておきたくて」
リビングには、母の使っていたものが並んでいた。
薬。
老眼鏡。
テレビのリモコン。
飲みかけだった水。
何もかも、そのままだった。
「警察から聞きました」
佳代が言った。
「事故だったって」
「はい」
「よかったですね」
里奈は少し考えた。
「……よかった、のかな」
「どうして?」
「母が死んだのに、私は今、安心してるから」
佳代は答えなかった。
「事件じゃないって分かって、ほっとしたんです」
「それは普通ですよ」
「でも、母が死んで悲しいより先に、ほっとした」
「里奈さん」
佳代はゆっくり言った。
「介護していたんですから」
「……」
「悲しいだけじゃなくていいんですよ」
里奈は佳代を見た。
「怒ってもいいし、ほっとしてもいい」
「……母を嫌いだったって思っても?」
「はい」
佳代は頷いた。
「嫌いだったんでしょう?」
「……はい」
里奈は少し笑った。
「すごく嫌いでした」
それを口にしたら、涙が出た。
「でも、でも…好きだったんです」
佳代は何も言わなかった。
「嫌いなのに、好きだった」
「……親子って、そういうものかもしれませんね」
「高橋さんも?」
「私ですか?」
「はい」
佳代は少しだけ笑った。
「私は……仕事ですから」
二人とも笑った。
ほんの少しだけ。
その笑いが消えると、部屋はまた静かになった。
──────
夕方。
佳代が帰ったあと、里奈は母の寝室を片付け始めた。
引き出しを開ける。
薬の袋。
診察券。
古い通帳。
母子手帳。
昔の写真。
「こんなの、いつまで持っとったん……」
写真には、若い頃の母が写っていた。
隣には、小さな里奈。
母は笑っている。
里奈は、その写真を見つめた。
「……お母さん、こんな顔するんや」
ほとんど覚えていない。
母が自分に笑いかけた記憶より、怒鳴られた記憶のほうがずっと多かった。
写真を裏返す。
そこに、母の字で日付が書いてあった。
里奈が五歳の頃。
それだけだった。
里奈は写真を箱に戻した。
そして、ベッドの下に何か落ちているのに気づいた。
拾い上げる。
小さな紙袋だった。
中には、古い髪留めが一つ入っていた。
「……私の?」
子供の頃に使っていたものだった。
こんなものまで取っていたのか。
里奈はしばらく手のひらの上で眺めていた。
捨てようと思った。
でも、捨てられなかった。
──────
夜。
母のいない家は、驚くほど静かだった。
里奈は一人で夕食を食べた。
箸を置く。
時計を見る。
いつもなら、この時間になると母が呼ぶ。
「里奈」
「何?」
「水」
「そこにあるよ」
「取って」
「自分で取れるやろ」
「冷たい」
「じゃあ、もう少し待って」
そんなやり取りが、毎晩あった。
もう、ない。
「……静かすぎるよ」
里奈は呟いた。
返事はない。
テレビをつける。
音が大きすぎて、すぐ消した。
風呂に入る。
歯を磨く。
布団に入る。
眠れない。
目を閉じると、母の声が聞こえる。
――早よ帰ってきて。
里奈は目を開けた。
「……帰ってきたよ」
誰もいない部屋で呟く。
「ちゃんと帰ってきたのに」
涙が頬を伝った。
「遅かったね」
──────
翌朝。
里奈は母の部屋をもう一度片付けていた。
机の奥から、古いノートが出てきた。
家計簿だった。
何年も前のもの。
ページをめくる。
食費。
光熱費。
病院代。
その中に、妙な記録があった。
里奈がまだ子供だった頃のもの。
小さな金額が、毎月少しずつ書かれている。
「何これ……」
最後のページには、
里奈 成人式
とだけ書かれていた。
その下に、何年も前の日付。
里奈は息を止めた。
母は、ずっと前から少しずつお金を貯めていたらしい。
自分のために。
でも、成人式なんて、とっくに終わっている。
その貯金が使われた形跡はなかった。
里奈はノートを閉じた。
「……何で」
答えはない。
母はもういない。
──────
その夜。
里奈は母の写真を一枚だけ、リビングに飾った。
笑っている写真だった。
しばらく眺める。
「お母さん」
写真の中の母は答えない。
「私ね」
言葉が詰まる。
「やっぱり、あんたのこと……」
嫌いだった。
そう言えばいい。
言えば楽になる。
でも、言えなかった。
「……もう少し、普通に話したかった」
涙が落ちる。
「普通に喧嘩して」
「普通に仲直りして」
「普通に……」
そこで言葉が止まった。
母が死んでから、初めて思った。
自分が欲しかったのは、母からの謝罪でも、感謝でもなかった。
ただ、
普通の母娘になりたかった。
それだけだった。
里奈は写真を伏せた。
そのとき、母の寝室から小さな音がした。
何かが落ちたような音だった。
里奈は立ち上がった。
寝室へ向かう。
床には、母の古いバッグが落ちていた。
拾い上げる。
中から、一枚の紙が滑り落ちた。
里奈は何気なく拾った。
そこには、母の字で短い言葉が残されていた。
【里奈へ】
それだけだった。
里奈は紙を握りしめた。
その続きを探した。
けれど、何も書かれていなかった。
ただ、その一枚だけ。
母が最後に残した言葉。
それが何を意味するのか。
里奈は知らない。




