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嫌いなままで  作者: 志に異議アリ


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最終話 嫌いなままで


事故から三週間が経った。

 

里奈は、母の家を少しずつ片付けていた。


捨てるもの。

残すもの。

判断できないもの。

それぞれに分けていく。


母の服は、ほとんど処分した。

着る人がいないから。

薬も捨てた。

もう必要ないから。


けれど、母の古いバッグだけは、どうしても捨てられなかった。


あの日、寝室で見つけた紙。

そこには、

―――里奈へ―――

 

とだけ書かれていた。

続きはなかった。

何度見ても、そこには何もない。


「……何だったんだろ」

里奈は紙を指先で撫でた。

母は何を書こうとしていたのだろう。


謝罪?

文句?

遺言?

それとも――。


考えても分からない。

紙を封筒に戻す。

 

そのとき、ふと窓の外を見た。

夕方だった。

母が亡くなった日のような、薄いオレンジ色の空。

里奈は、カーテンを閉めようとした。


そして、そこで手が止まった。

窓辺に置かれた、小さな鉢植え。

枯れている。

いつからそこにあったのかも知らない。

水をやることもできなかったのだろう。


「……ごめんね」

誰に言ったのか、自分でも分からなかった。


──────


あの日の夜。


母が亡くなる前日の夜。


千代は、一人でベッドに座っていた。


娘が出ていったあと、家の中は静かだった。

 

さっきまであれほど腹を立てていたのに、今はもう怒る気になれない。


「……もう知らん、か」

千代は小さく笑った。


「やっと言えたね」

テーブルの上には薬が置いてある。

いつもなら、この時間に飲む。

千代は手を伸ばした。

薬をつまむ。


けれど、しばらく眺めたあと、手を戻した。


「……今日は、よか」

水の入ったコップも、そのままにした。


娘がいれば、

「薬飲んだ?」


「飲んだ」


「ほんとに?」


「うるさいね」

そんなやり取りをするところだった。

 

千代は、一人で笑った。

「ほんっと、うるさい子やったね」


少し間を置く。


「……いや」


誰もいない部屋で、声が小さくなる。


「私が、そうさせたんか」


千代はベッドに腰掛けたまま、膝をさする。


昔は、もっと簡単に歩けた。

買い物にも行けた。

料理もできた。

里奈の弁当だって作った。

 

今では、トイレへ行くにも誰かの手を借りなければならない。


「情けない」

呟いて、しばらく黙った。


それから、ぽつりと言う。


「私がおらんほうが、あの子は楽やろね」

 

窓の外を見る。

もう暗い。


「仕事して、家帰って、私の世話して」


「そりゃ、嫌になるわ」

千代は笑った。


「私でも嫌になる」


そして、少しだけ目を細めた。


「だから、嫌われとかんとね」

誰に聞かせるでもなく。


ただ、自分自身に言い聞かせるように。


「優しい母親やったなんて思われたら、あの子は困る」


「私が死んだあとも、きっと考える」


「もっと優しくすればよかった」


「もっと一緒におればよかった」


「もっと……」

千代は首を振った。


「そげなこと、考えんでよか」

しばらく沈黙した。


「だから、いっぱい嫌われた」


「馬鹿って言った」


「役立たずって言った」


「何もできんって言った」


「私がおらんほうが楽やろって、何回も言った」

千代は目を伏せた。


「……言いすぎたね」

少し笑う。


「ほんとは、そんなこと思っとらんのに」


声が震えた。


「でも、もう戻れんね」

テーブルの上の薬を見る。


「薬も、飲まんかったら……あの子、怒るやろうね」


「なんで飲まんかったと、って」


「ちゃんと飲んでって言ったやろ、って」

その声を真似して、千代は笑った。


「うるさいねえ」

笑ったあと、静かになる。


「……でも」

千代は薬を見つめた。


「最後まで、私の世話をさせたくない」

 

その言葉だけが、部屋に落ちた。

 

しばらくして、千代は小さな紙を取り出した。


ペンを握る。

 

何かを書こうとして、手が止まる。


謝ろうか。

ありがとうと言おうか。

大好きだったと書こうか。


どれも違う気がした。


そんなことを書いたら、里奈はきっと泣く。


自分が死んだあとまで、娘を縛ってしまう。


だから――。


千代は紙に、


―――里奈へ―――


とだけ書いた。


その先は、なかなか続かなかった。


結局、何も書けなかった。


紙を畳む。


「……何て書けばよかとね」

千代は苦笑した。


「ありがとう、なんて書いたら……あの子、また泣くやろ」

目元を指で拭う。


「ごめん、も駄目」


「好きだった、も駄目」


「全部、駄目」

少しだけ笑った。


「……嫌いなままでよか」

それが、最後だった。


──────


翌朝。

 

千代はいつものようにベッドから起き上がろうとした。

 

薬は、昨夜のまま。

足元がふらつく。


「……あら」


手を伸ばす。

身体が傾いた。

コップが床に落ちた。

鈍い音。

 

千代は床に倒れた。

しばらく動かなかった。

やがて胸元を押さえる。

苦しい。

けれど、声を出せば誰かが来る。

電話に手を伸ばせば、助けを呼べる。


千代はベッドの上の携帯電話を見た。

指先が少し動いた。



それから――

手を下ろした。


「……佳代さんが来るけん」

小さく呟いた。

それ以上は、何も言わなかった。


──────

 

現在

 

里奈は母の家の窓を開けた。

冷たい風が入ってくる。

部屋の空気が少しだけ動いた。

母の写真が、棚の上にある。

里奈はそれを手に取った。


「お母さん」

写真の中の母は笑っている。


生前なら、

「何ね。気持ち悪い」

とでも言っただろう。


里奈は少し笑った。

「最後まで、嫌な人やったね」

写真を見つめる。


「私、ずっと嫌いやったよ」

涙が一粒落ちた。


「……でも」

言葉が続かない。

写真を胸元に抱く。


「私がいなくなったら、寂しかった?」

返事はない。


「私、帰ってこなかったから……」

涙を拭う。


「ごめんね」

そして、少しだけ笑う。


「でも、お母さんも悪いよ」

写真を元の場所に戻す。


その横に、あの小さな紙を置いた。

 

―――里奈へ―――

 

その続きを、里奈は知らない。

 

知らないままでいいのかもしれない。

 

母が何を書こうとしたのか。

なぜ書けなかったのか。

もう確かめることはできない。

 

ただ一つだけ。

 

母の死を、自分のせいにはしない。

 

それだけは、これから守っていこうと思った。

 

窓を閉める。


部屋を出る前に、里奈は一度だけ振り返った。


「じゃあね、お母さん」

ドアを閉める。


静かな家に、もう返事はなかった。

 

それでも里奈は、ほんの少しだけ笑った。


母が最後まで望んだように。

 

嫌いなままで。





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