第2話 仕事ですから
高橋佳代が田村家を訪れるようになって、八か月になる。
最初の頃は、まだ母娘の喧嘩に驚いていた。
今では、ほとんど気にならない。
「佳代さん、遅い」
玄関を開けるなり、千代が言った。
「すみません。前のお宅が少し長引いてしまって」
「仕事なんやけん、時間くらい守りんしゃい」
「はい。すみません」
佳代は靴を脱いだ。
時計を見る。
予定より三分遅い。
それでも千代には遅刻だった。
「今日は何すると?」
「いつも通り、お掃除して、お薬の確認と、お昼のお手伝いです」
「掃除はせんでよか」
「え?」
「昨日、里奈がしたけん」
佳代は部屋を見回した。
テーブルの上には新聞が三日分。
床には薬の袋。
洗面所には使ったタオル。
掃除をしたようには見えない。
「……そうですか」
「何ね、その顔」
「いえ」
「私が嘘ついとると思っとると?」
「そんなこと言ってませんよ」
「顔に書いとる」
佳代は笑った。
「じゃあ、お茶でも淹れましょうか」
「ぬるいのは嫌よ」
「はい」
「熱すぎても嫌」
「はい」
「濃すぎても嫌」
「はい」
「薄すぎても嫌」
佳代は振り返った。
「では、ちょうどいいお茶を淹れますね」
「それができんけん言いよると」
佳代は小さく息を吐いた。
「……頑張ります」
台所へ向かった。
仕事だから。
そう思えば、大抵のことは流せる。
そう思わないと続かない。
──────
「佳代さん」
「はい?」
「里奈から電話あった?」
「今日はまだです」
「ふん」
「何かありました?」
「別に」
千代はテレビを見ていた。
音量が大きい。
「昨日も遅かった」
「お仕事ですか?」
「仕事しか能がないけんね」
佳代は何も言わなかった。
「私の世話なんか、嫌で嫌で仕方ないくせに」
「お母さん」
「何ね」
「里奈さんも頑張ってますよ」
「誰も頼んどらん」
その言葉だけは、妙に冷たかった。
「私は一人で生きてきたとよ」
佳代は千代を見る。
「……そうなんですね」
「そうよ。誰にも迷惑かけずに生きてきた」
佳代は床に落ちていた薬の袋を拾った。
それを聞いていると、少しだけおかしかった。
千代は、自分で立ち上がることも難しい。
一人でトイレへ行くこともできない。
薬だって、里奈が一日分ずつ分けている。
それでも本人は、
「誰にも迷惑をかけていない」
と言う。
人間というのは、不思議なものだ。
「佳代さん」
「はい」
「私が死んだら、あの子喜ぶやろね」
「そんなことないですよ」
「なんで分かると?」
「娘さんですから」
「娘やけん何ね」
千代は笑った。
「親子なんか、そんな綺麗なもんじゃなかよ」
佳代は返事をしなかった。
その言葉だけは、わかる気がした。
──────
昼前。
里奈から電話がかかってきた。
「はい、高橋です」
『すみません、高橋さん』
「どうしました?」
『母、薬飲みました?』
「まだですよ。今からお昼ご飯と一緒に飲んでもらおうと思っています」
『そうですか……』
「何かありました?」
少し間があった。
『今朝、薬がないって言われて』
「ああ。テーブルの下に落ちてましたよ」
『やっぱり……』
「お母さん、ちょっと怒ってましたけど」
『すみません』
「里奈さんが謝ることじゃないですよ」
『……ありがとうございます』
声が疲れていた。
佳代は少し迷ってから言った。
「今日は、早く帰ってきてあげたほうがいいかもしれません」
『え?』
「お母さん、朝から少し機嫌が悪いので」
『……わかりました』
電話が切れた。
佳代はスマートフォンを置いた。
「何を話しよったと?」
千代が聞いた。
「里奈さんです」
「余計なこと言わんかったでしょうね」
「何も」
「ふん」
千代はそっぽを向いた。
「どうせ私が死ねばいいと思っとるって言うたやろ」
「言ってません」
「なら、なんであの子はあんな顔しとるとね」
「どんな顔です?」
「疲れた顔」
佳代は黙った。
千代はテレビに視線を戻した。
「私のせいみたいに」
佳代は聞こえなかったふりをした。
──────
午後。
千代の着替えを手伝っていると、突然、千代が腕を振った。
「痛い!」
「すみません!」
「下手くそ!」
「ごめんなさい。もう一度やりますね」
「もういい!」
「でも、このままだと――」
「触らんで!」
佳代は手を止めた。
千代は荒い息を吐いていた。
「……すみません」
佳代は少し離れた。
「私、向こうにいますね」
「勝手にせんね」
佳代は部屋を出た。
廊下に立ったまま、目を閉じる。
胸の奥が熱くなっていた。
腹が立つ。
ものすごく腹が立つ。
でも、怒ってはいけない。
相手は高齢者。
病気がある。
身体が思うように動かない。
不安なのだ。
そう自分に言い聞かせる。
それでも、
――もう、この人のところに来たくない。
そう思った。
初めてだった。
──────
夕方、仕事を終える。
「明日は何時ね?」
玄関で千代が聞いた。
「九時半です」
「遅い」
「いつも通りですよ」
「もっと早う来て」
「すみません。1度会社に寄らないといけませんので。」
「役に立たんね」
「……はい」
「何ね、その返事」
「いえ」
佳代は靴を履いた。
「じゃあ、また明日」
「佳代さん」
「はい?」
「里奈に電話して」
「今からですか?」
「そう」
「何かありました?」
「別に」
「でしたら、帰ってからでも――」
「私が電話してって言いよると!」
佳代は一瞬、黙った。
「……わかりました」
外へ出る。
ドアが閉まった。
佳代はその場で深く息を吐いた。
スマートフォンを取り出す。
里奈に電話をかける。
出ない。
もう一度かける。
出ない。
「……寝てるのかな」
そう呟いて、歩き出した。
その日の夜。
佳代の携帯電話に、一本の電話が入った。
田村家の近所に住む女性からだった。
『高橋さん?』
「はい」
『田村さんのお母さん……』
「はい?」
『今日、娘さんと喧嘩してたでしょう?』
「……そうなんですか?」
『大きな声が聞こえたのよ』
佳代は立ち止まった。
『それでね……』
「はい」
『娘さん、出ていったあと、まだ帰ってきてないみたい』
佳代は時計を見た。
夜の十一時を過ぎていた。
「……そうですか」
『電話、してみたほうがいいんじゃない?』
「わかりました」
電話を切る。
佳代は、里奈に電話をかけた。
今度は、すぐにつながった。
『……もしもし』
「里奈さん?」
『はい』
「今、どちらですか?」
少し間があった。
『外です』
「お母さんが心配しています」
『……』
「帰れそうですか?」
『今日は……』
里奈の声が震えていた。
『今日は帰りたくないです』
佳代は何も言えなかった。
『私、もう無理なんです』
電話の向こうで、鼻をすする音がした。
『母のこと、嫌いになりそうで』
佳代は目を閉じた。
その言葉に、返す言葉が見つからなかった。
しばらくして、佳代は静かに言った。
「……嫌いになっても、いいんじゃないですか」
言ってから、自分でも驚いた。
『え?』
「いえ……」
佳代は言葉を濁した。
「今日はもう、ゆっくりしてください」
『でも、母が……』
「私が明日の朝、行きます」
『……ありがとうございます』
電話が切れた。
佳代は暗い道路を見つめた。
自分は何を言ったのだろう。
介護の仕事をしている人間が、
「嫌いになってもいい」
なんて。
それでも、撤回する気にはなれなかった。
その夜。
佳代はなかなか眠れなかった。
午前二時を過ぎても、目が冴えていた。
頭の中に、千代の声が残っている。
――私が死んだら、あの子喜ぶやろね。
佳代は布団の中で寝返りを打った。
「……そんなこと、あるわけないでしょう」
誰もいない部屋で呟いた。
翌朝。
佳代はいつもより早く家を出た。
田村家の玄関前に立つ。
インターホンを押す。
返事がない。
「田村さん?」
もう一度押す。
返事がない。
佳代は嫌な予感がして、合鍵を取り出した。
「入りますよ」
ドアを開ける。
静かだった。
テレビの音もしない。
台所にもいない。
「田村さん?」
寝室へ向かう。
そして、ベッドの横に立った。
「……田村さん?」
返事はなかった。
佳代は、その瞬間、自分の足元から力が抜けていくのを感じた。
床には、割れたコップ。
その横に、いくつかの薬が落ちていた。
そして――
千代は、もう動かなかった。




