第1話 もう知らん
朝六時半。
「里奈。お茶」
目覚まし時計が鳴るより先に、母の声がした。
里奈は布団の中で目を開けた。
「……今、行く」
「今っていつね。私は喉が渇いとるっちゃけど」
「わかってる」
起き上がる。
腰が重い。
昨日は夜中の二時に母をトイレへ連れていった。
そのあと、眠れなかった。
台所へ行き、やかんに水を入れる。
「冷たいのがよかったのに」
背後から声がする。
「……お湯って言ったやん」
「そんなこと言っとらん」
「昨日言ったよ」
「私が言ったって言うと?」
里奈は黙った。
「もうよか。あんたに頼んだ私が馬鹿やった」
朝から始まった。
いつものことだった。
母、千代は、昔からこういう人だった。
気に入らないことがあれば、誰かのせいにする。
ご飯が柔らかければ、
「歯がない年寄りみたい」
硬ければ、
「こんなもん食べられるか」
薬を出せば、
「多すぎる」
減らせば、
「私を殺す気ね」
何をしても、一つは文句が出る。
それでも里奈は、母の薬をテーブルに並べた。
「朝の分。これ飲んで」
「いらん」
「昨日も飲まんかったやん」
「飲んだ」
「飲んでないよ」
「飲んだって言っとるやろ!」
突然、大きな声が飛んできた。
里奈の手が止まる。
「……じゃあ、飲んだならいい」
「何ね、その言い方」
「もう知らん」
口から出てしまった。
千代が黙った。
しまった、と思った。
でも、謝る気力もなかった。
「……私が死ねば、あんたも楽になるっちゃろ」
「そういう意味じゃない」
「じゃあどういう意味ね」
「疲れたって言ってるの」
「私のせいね」
「そうじゃなくて」
「じゃあ誰のせいね」
答えられなかった。
千代は鼻で笑った。
「親の面倒もまともに見きらんとね」
胸の奥が、ぎゅっと縮んだ。
「……見てるよ」
「何を?」
「何をって……」
「飯作って、薬飲ませて、トイレ連れてって、それで親孝行したつもり?」
里奈は俯いた。
言い返せば、もっと長くなる。
黙れば、もっと責められる。
だから、いつも黙る。
「私が若い頃はね――」
始まった。
昔の話。
母がどれだけ苦労して里奈を育てたか。
どれだけ我慢してきたか。
何度聞いたかわからない話。
里奈は冷蔵庫を開けた。
中には、昨日買ったプリンが一つ入っていた。
母の分だ。
食欲がないと言っていたから、今日は食べるかもしれない。
そう思って買った。
でも、たぶんまた、
「こんなのいらん」
と言われる。
それでも買ってしまう自分が、嫌だった。
「里奈」
「なに?」
「今日は何時に帰ってくると?」
「仕事終わってからだから、七時くらい」
「遅い」
「仕事だから仕方ないよ」
「私より仕事が大事ね」
「そういうこと言わないでよ」
「じゃあ仕事辞めれば?」
里奈は振り返った。
「……簡単に言わないで」
「何が難しいと?」
「生活があるんだから」
「私がおるけん生活できんと?」
「そうじゃない!」
声が大きくなった。
千代も負けなかった。
「じゃあ何ね!」
「……もういい」
鞄を掴んだ。
「行ってきます」
「逃げるとね」
玄関で靴を履く。
「里奈」
背中に母の声。
「今日、早く帰ってきて」
里奈は一瞬だけ動きを止めた。
けれど振り返らなかった。
「……わかった」
ドアを閉めた。
外はまだ朝だった。
冷たい風が頬に当たる。
駅まで歩きながら、里奈は何度も母の声を思い出した。
――今日、早く帰ってきて。
それだけなら、普通の母親の言葉だった。
なのに。
なぜか、ひどく疲れた。
──────
仕事中も、携帯電話が気になった。
昼休みに確認すると、着信が三件。
母だった。
折り返す。
「もしもし?」
『遅い』
「仕事中だったの」
『薬がない』
「朝、置いたよ」
『ない』
「テーブルの上は?」
『ないって言っとるやろ』
「ちょっと待って」
里奈は目を閉じた。
「薬の袋、探してみて」
『あんたがちゃんと置いとけばいいと』
「……ごめん」
『帰ってきて』
「今は無理」
『じゃあ、もういい』
電話が切れた。
里奈はしばらく携帯を見つめていた。
そして、また仕事に戻った。
午後四時。
会社を出る直前、また電話が鳴った。
ヘルパーの高橋さんだった。
「もしもし」
『里奈さん? 今、家にいます』
「どうしました?」
『お母さん、今日はちょっと機嫌が悪くて……』
「ああ……すみません」
『いえ。でも、薬はちゃんとありましたよ』
「……ありました?」
『はい。朝の分、テーブルの下に落ちてました』
里奈は黙った。
『あと、お母さん、少し熱っぽいので、帰ったら様子見てあげてください』
「わかりました」
『無理しないでくださいね』
その言葉に、里奈は少しだけ笑った。
「ありがとうございます」
電話を切る。
無理しないで。
そんなこと、できるわけがない。
帰れば母がいる。
母の食事を作る。
薬を確認する。
風呂を手伝う。
トイレに連れていく。
夜中に呼ばれるかもしれない。
それを毎日繰り返す。
いつまで?
いつまで、私は――。
駅へ向かう途中、足が止まった。
夕方の空が、やけに綺麗だった。
家とは反対方向に、電車が来た。
里奈は、その電車を見つめた。
乗ってしまえばいい。
一晩くらい。
どこかへ行ってしまえばいい。
誰にも何も言わずに。
母のことを考えなくていい場所へ。
電車のドアが開く。
里奈は動かなかった。
ドアが閉まる。
電車が遠ざかる。
「……何やってんだろ、私」
そう呟いて、家へ向かった。
──────
玄関を開ける。
「ただいま」
返事がない。
「お母さん?」
リビングにもいない。
寝室を覗く。
千代はベッドに横になっていた。
「寝てる?」
「……うるさい」
起きていた。
「ご飯、どうする?」
「いらん」
「昼も食べてないでしょ」
「いらんって言いよるやろ」
「じゃあ、何か食べたいものある?」
「ない」
里奈は黙って台所へ向かった。
冷蔵庫を開ける。
朝のプリンが残っていた。
取り出す。
スプーンを添える。
「プリン、ここ置いとくね」
「いらん」
「食べたくなったら食べて」
「子供扱いせんで」
「してないよ」
「そうやって何でも私の世話ばっかり焼いて。私が頼んだ?」
里奈はプリンを置いた。
「……じゃあ、もういい」
「何が?」
「もう知らん」
千代がこちらを見る。
「そうね」
短い返事だった。
里奈は鞄を置いた。
そして、そのまま玄関へ戻った。
「どこ行くと?」
「散歩」
「こんな時間に?」
「ちょっと外に出るだけ」
「ご飯は?」
「いらない」
「里奈」
呼ばれた。
けれど、今度は振り返らなかった。
「……もう知らんけん」
ドアを閉めた。
外へ出る。
歩く。
どこへ行くのか、自分でもわからない。
ただ、家から離れたかった。
母から。
介護から。
自分自身から。
歩いているうちに、スマートフォンが鳴った。
母からだった。
里奈は画面を見つめた。
出なかった。
また鳴った。
それでも出なかった。
三度目の着信が終わった。
静かになった。
里奈はスマートフォンをポケットにしまった。
その瞬間、自分の胸の奥に浮かんだ感情に気づいた。
――もう、帰りたくない。
その気持ちを認めた途端、涙が出た。
歩きながら、何度も拭った。
泣くな。
泣くな。
明日になれば帰ればいい。
そう思いながら、里奈は家とは反対方向へ歩き続けた。
その夜、母の家には、明かりが一つだけ残っていた。




