垠お兄様と方子(まさこ)殿下
私がまだ、東京の女子学習院に入学して間もない頃のことでございます。
異母兄である純宗お兄様が静かにお隠れになり、跡を継がれることになっていた垠お兄様が、王位に就かれました。
「昌徳宮李王垠」殿下
――それが、新しいお兄様の御名となったのでございます。
十五も歳が離れた垠お兄様と私が初めて言葉を交わしましたのは、私が京城を離れ、日本へ渡ってまいりました十二歳の春でございました。
それまで雲の上の存在のようだったお兄様は、東京のお屋敷で私を静かに出迎えてくださったのです。
お兄様は元々、驚くほど口数の少ない、とても生真面目な方でございました。同じお屋敷の敷地内に住まわせていただくことになったものの、お互いの間にどこか遠慮があるかのように、親しく膝を交えてお話しする機会はそう多くはございませんでした。
お兄様もまた、幼くして日本へ来られて、言葉にできぬ寂しさを抱えて生きてこられたのだろうと、今の私ならよく解るのです。けれど当時の私には、その静けさがただただ、少し重苦しく感じられたのでございました。
そんな私に、本当の肉親のようにお優しい情愛をもって手を差し伸べてくださったのが、お兄様の妃であられる方子殿下だったのです。
方子殿下は、私をお屋敷に迎えてくださった当初から、何かと私の部屋へ足を運んでくださいました。
それは、ご自身が数年前に、生後わずか八ヶ月で長子であられた晋殿下を亡くされた悲しみを、どこかで重ねておられたからなのかもしれません。
遠い故郷からやってきて心を閉ざしがちになっている私の中に、失った我が子の面影を見ておられたのでしょうか。
殿下は、まるで私を本当の妹であるかのように愛おしんでくださり、いつも細やかな心を配ってくださったのでございます。
方子殿下は、かつては日本の皇太子殿下のお后候補のお一人であられたとも聞いております。
将来、どのような場に立たれても恥ずかしくないようにと、母君であられる伊都子妃殿下から、それは熱心な教えを受けられたそうでございます。
学問の優秀さはもちろんのこと、お料理も、お掃除も、針仕事にいたるまで、殿下は何でも見事にこなされるお方だったのです。
私も、朝鮮で王室の“翁主”として、格式に見合う、きちんとした振る舞いや礼儀作法を厳しく教えられて育ちました。
けれど、それはあくまで人々の前で王族としての気品を保つためのものであり、自らの手を動かして家事をするなどということは、考えたこともございませんでした。
王族とは、ただ傅かれる存在なのだと教えられてきて、そのことに疑問を抱いたことさえなかったのでございます。
それなのに、方子殿下は違っていらっしゃいました。私の好物である朝鮮料理をご自身で作ってくださったり、私が苦手なフランス語の宿題があれば、夜遅くまで隣に座って優しく教えてくださったりしたのです。
お兄様を支え、しっかりと家庭を切り盛りされる方子殿下のお姿。お二人で仲睦まじく歩まれるそのお姿は、次第に私の憧れとなっていきました。
しかし同時に、それは私の心にそっと影を落とす、自信のなさの種にもなってしまったのです。
「私が、あんな風に誰かを支えることなどできるのだろうか。
私とともに生きてくださる方など、この世にいるのだろうか」
方子殿下が寄り添い、励ましてくださるほどに、私は自分の小ささを突きつけられるようで、かえって寂しさを感じてしまうのでございました。
方子殿下は、お兄様とご結婚されてから、ハングルを熱心に学ばれておりました。
京城に残された純宗お兄様やそのお妃様を気遣い、一生懸命にハングルでお手紙を書き、送っておられたのです。
ですが、王宮では殿下から届いたお手紙を広げ、「なんと拙い朝鮮の言葉か」「日本の方の書く文字はこれだから」と、陰で冷ややかに笑い、揶揄していたことを私は知っておりました。
王宮の人々のその頑なな態度が、私にはどこか悲しかったのでございます。
私が日本に来てからしばらくして、数年前の関東大震災の折に起きてしまった、朝鮮の人々に対する痛ましい騒動のことを知ることになりました。
人心がひどく乱れてしまった天災の時期だったとはいえ、不確かな噂話一つで罪のない同胞が命を落としたという事実は、私の心を凍りつかせました。
日本の方々は、心の底では私たち朝鮮の人間をどう見ているのだろう。日之出小学校で受けていた、あの温かい手厚い待遇は、うわべだけの綺麗ごとだったのだろうか――。
隠れている人々の本音を覗いてしまったようで、胸が痛みました。もちろん、理性を保ち、命がけで朝鮮の人を匿い、庇ってくださった立派な日本の方が大勢いたことも、私はよく知っているのです。
世界は、白か黒かで割り切れるほど単純ではないのだと、十四歳の私は気づき始めておりました。
そして何より、方子殿下の日々の営みを見ておりますうちに、私はある大切なことに気がついたのでございます。
日本では、物を作る方や、額に汗して身体を動かす方を尊び、決して軽んじることはございません。
皇族の娘であっても、誰かのために自ら立ち働いてお料理を作る。それは、私が生まれ育った朝鮮の古い価値観とは、あまりにも大きすぎる違いでございました。
私の実の母である梁貴人は、元々は王宮の厨房で働く下級女官の出であり、その実家は行商人だったと聞いております。
つまり、朝鮮の厳しい身分制度においては、決してお家柄のよい方ではなかったのです。それなのに、幼い頃の私は、周囲の大人たちから「あなた様は高貴な王后の娘なのだ」という嘘を教え込まれ、それをすっかり信じておりました。
だからこそ、母の血を引く親類や、汗を流して働く人々を、心のどこかで軽んじてしまっていたのかもしれなかったのです。
今思えば、なんと愚かで、恥ずかしいことだったのでしょう。方子殿下が清々しく立ち働くお姿は、私の心の中にあった歪んだ誇りを、静かに、そしてきれいに消し去ってくれたのでございました。
日韓が併合された後、李王家は皇族に準ずる扱いを受け、やがて正式に日本の法律の下に組み込まれました。
朝鮮が何百年も頑なに守り続けてきた、身分や形式を重んじるやり方。
そして、日本がこの半島に新しく推し進めようとする、きっちりとした制度のやり方。
その二つは、あまりにもかけ離れておりました。
どちらが正しい、という話ではございません。ただ、その簡単には埋まらない大きな隔たりこそが、傷つき、悲しい思いをしてきた朝鮮の人々の胸に、消えることのない割り切れぬ思いを蒔き続けているのではないか――。
東京の華やかな女子学習院の教室で、大勢の生徒の一人として静かに机に向かいながら、私はそんなことを、少しずつ、しかし深く考えるようになっていったのでございます。
私の心の中に、言葉にできない重苦しい霧が、ゆっくりと立ち込め始めましたのは、ちょうどこの頃のことでございました。




