心を病んで…
私が日本へ渡ったせいで、故郷の朝鮮へ帰りたくても帰してもらえず、それゆえに心を病んでしまったのだ
――世間には、私の生涯をそのように哀れむ方がいらっしゃるようでございます。
けれど、それは違うのです。
思えば、あの東京の地へ向けて出発するよりも前から、私はすでに、ひとりの血の通った人間としてではなく、
時代が求めたある種の“物語”を背負わされていたのかもしれなかったのでした。
一九二五年(大正十四年)三月二十一日。
日本のラジオ放送から、私の作った童謡の旋律が流れたと言います。
時を同じくして『京城日報』は、
『美しい詩の天才の姫を、帝都の人々は歓んで迎えようとしている』と、華々しく書き立てたのでございました。
まだ見ぬ東京の人々は、私というひとりの不器用な少女ではなく、「詩の天才の姫」という評判のほうを、先に両手を広げて迎え入れようとしていたのですね。
その熱狂に押し出されるようにして、三月二十八日、私は住み慣れた京城を発ちました。
日本に来てからの四年間、私は世間で言われているように、ずっと母から引き離され、孤独に泣いていたわけではございません。
少なくとも年に一度は、私は懐かしい朝鮮の土を踏んでいたのでございます。
異母兄である純宗お兄様のお見舞いやそのお葬儀、法事、そして最愛の母の病気――。
その多くは悲しい用事での帰郷ではございましたけれど、そんな中にも、忘れることのできない温かな光のような思い出がございました。
私が女子学習院に入ってから一年ほど経った冬、長く病を患っていた母・梁貴人を案じて、私はひとりで里帰りをしたことがございます。
あのときの写真がいまも残されておりますが、見返しますと、私はカメラに向かって満面の笑みを浮かべているのです。
王宮の堅苦しい決まりからも、東京での張り詰めた日常からも解き放たれ、大好きな母と二人きり、水入らずの一ヶ月を過ごせたことは、生涯忘れられないほど本当に嬉しいことでございました。
また、故郷へ帰るたびに、あの日之出小学校の先生や学友たちが、私のために歓迎の学芸会を開いて出迎えてくれたことも、深く心に染み渡る喜びだったのです。
けれど、そんな風に故郷で心の洗濯をいたしましても、東京へ戻ればまた、慣れない学業と、日に日に増えていく王公族としての重い公務が私を待っておりました。
一九二九年十一月には、上野の東京音楽学校の創立五十周年式典に、垠お兄様ご夫妻や多くの女性皇族方とともに並んで席に就きました。
大勢の視線が注がれるなかで、振る舞いの一つひとつを決められた通りに、おとなしい微笑みを浮かべて静かに座り続けていること――。
それは、ただの私として伸び伸びと詩を紡いでいたあの頃とはまるで違う、静かな、けれど逃げ場のない緊張となって、私の心を少しずつ、確実にすり減らしていったのでございます。
そして――私が最も恐れていた別れが訪れます。あの一人での里帰りからしばらく経った、一九二九年五月。最愛の母が、静かに息を引き取りました。
臨終の瞬間にこそ立ち会うことはできませんでしたけれど、私が日本政府によって帰国を遮られ、母に会えないまま死に別れたというのも、やはり後世の方々が作り上げたお話に過ぎないのです。
最愛の母を亡くし、女子学習院での憂鬱な日々がますます募るなかで、私は「京城にさえ帰れば、きっとこの心の霧も晴れるだろう」と、どこかで一筋の期待を抱いておりました。
私を無条件で愛してくれるお母様がいる王宮は、傷ついた心を安らげられる最後の砦のはずだったからです。
これまでお兄様のお見舞いやお葬儀で帰郷した時は、まだ幼い姫君として周囲は以前と変わらず優しく接してくれておりました。
私も十四歳そこそこであったし、お兄様がいてお母様がいて、私は幼い妹、そして娘で居られたのでございます。
けれど――お母様を失い、独りきりになって久しぶりに降り立った京城の王宮で、私は全く違う現実に直面することになりました。
かつて私と二人きりで笑い合ってくれたお母様は、もうどこにもいらっしゃいません。
出迎えた王宮の人々は、誰もが私に対してただ恭しく頭を垂れるだけで、幼い頃のように親しげに話しかけてくる者は、もう一人もいなかったのでございます。
日之出小学校の友だちが寄せてくれたような、あの無邪気で温かな歓迎の空気は、そこには影も形もございませんでした。
ああ、そうか。
私はもう、十六歳になっていたのですね。
世間を見渡せば、早い方ならお嫁に行くような年頃でございます。
お母様という盾を失った私は、生まれ育ったはずのこの王宮でも、もう可愛がられるだけの子供としては扱われませんでした。
誰もが傅くべき高貴な“翁主”として、
格式に見合う、きちんとした大人の振る舞いだけを求められたのです。
日本にいれば「朝鮮の王女」として少し離れた目で見られ、生まれ育った王宮へ帰れば「大人の翁主」として遠巻きに頭を下げられる。
日本人にもなりきれず、かといって、昔のままの朝鮮人としても受け入れてもらえない。
お母様を失ったことで、かつて私を育んでくれたはずの王宮までもが、もう私の安らげる居場所ではなくなってしまったのだということに、私はこの時、初めて気づかされたのでございました。
「詩の天才の姫」と私をもてはやした京城の新聞も、公務に追われた東京の張り詰めた日々も、そして今や冷たい格式だけが残るソウルの王宮も。
結局のところ、この世界のどこにも、ありのままの「徳恵」という少女でいられる場所など、最初から残されてはいなかったのです。
最愛の母を失い、最後の拠り所であったはずの故郷までもが、私の安らげる場所ではなくなってしまいました。
母の葬儀をすべて終え、重い足取りで東京の邸へと戻った頃から、私の身体ははっきりと悲鳴をあげ始めました。
夜になっても十分にお休みできなくなったり、逆に朝どうしても起き上がることができず、学校を欠席したりする日が目に見えて増えていったのです。
一九三〇年、純宗お兄様の後を継いで、垠お兄様が「昌徳宮李王垠」となられ、私たちは紀尾井町に新しく建てられた邸へと移り住むことになりました。
しかし、眩しいほどに立派な新邸の輝きとは裏腹に、私の心はさらに深く、重い闇へと向かってまいりました。
ついに、医師による細やかな診察を重ねて受けることになり、告げられた病名は
――「早発性痴呆症」。
今の世でいう、統合失調症の診断でございました。
あの日之出小学校の庭で、三つ編みの髪を優しく揺らして走り回り、毎日を生き生きと楽しんでいた私は、もう世界のどこを探してもおりません。
私は――自らの心を、病んでしまったのでございます。




