日本へ
十二歳になった私は、日本
――いわゆる「内地」で学ぶことが定められ、
一九二五年(大正十四年)四月、
東京の女子学習院へと編入学いたしました。
日之出小学校にも日本人の生徒や先生はおりましたけれど、そこには多くの朝鮮の友もいて、皆が私のことを
『徳恵姫』として、この上なく大切に扱ってくれたのです。
生まれ育った王宮でもそれは同じで、幼い私にとって、周囲から格別に敬われることは、呼吸をするのと同じくらい“当たり前”の日常でございました。
専用の控室が用意され、私の詠んだ詩に曲が付けられた童謡を皆が歌い、私が授業を受ける様子を宮様方が何度もご覧になる
――そんな風に、日之出小学校での日々は、私を中心に回っていたように思います。
ところが、海を渡って日本に来てみますと、世界は一変しておりました。
ここで『徳恵姫』と呼ばれる私は、
もう、何も特別な存在ではなくなっていたのです。
誰も、私の作った詩を歌ってはくれません。
誰も、私のことを「童謡の姫君様」とは呼ばないのです。
なぜなら、この国には私よりもずっと立派な「童謡の宮様」「童謡の皇子様」と称される、澄宮様
――のちの三笠宮崇仁親王殿下がいらっしゃったからでした。
女子学習院という場所は、
私と同じくらい“高貴な身分”の生徒と、
私よりはるかに“高貴な身分”の生徒ばかりがひしめき合う学校だったのです。
王公族として、決して粗雑に扱われたわけではございません。けれど、あの日之出小学校の頃のような輝く“太陽”では、もうなかったのでございます。
私はただの、ひとりの“生徒”に過ぎなくなってしまいました。
そんな私を誰よりも気にかけてくださったのは、日本の皇族から李王家へと嫁がれていた、垠お兄様の妃・方子女王殿下でございました。
「皆様、お家柄のある方ばかりで気位が高く、時にはお気に障ることもあるかと存じます。けれど姫様、あなた様は王公族として皇族並みの高貴なお方なのです。何一つ、気後れすることも羞じることもございませんよ」
方子様は、慣れない学校生活に戸惑う私をそう言って優しく諭してくださいました。
「李王家は大変な資産家として知られておりますから、時には羨望の目を向けられることもあるでしょう。
ご身分は高くとも、お手元不如意
――家計のやりくりに苦しまれている御家も、ここには多くございますから」
その言葉の端々に、方子様ご自身がかつて、周囲からの羨望とどこか冷ややかな視線に晒されながらも、それを毅然とした態度ではね返してこられたのだと気づかされました。
ご婚約が決まりました際、方子様はあえて朝鮮式に髪を真ん中から分けた結い方で、堂々と学習院へ登校されたのだそうでございます。
そんなお方だからこそ、今の私をこうして優しく励ましてくださるのでしょう。私は方子様の凛としたお姿に、ただ守られるだけではない強さを見出し、胸の奥で小さく勇気をもらうのでございました。
学校では、相変わらず体育の時間が苦痛でございました。日之出小学校の頃に比べれば、私なりに身体もずいぶんと丈夫になってきたつもりでおりました。
それなのに、ここではただ生真面目に「苦手であっても、もう少し頑張りなさい」と諭されるだけでございます。
それだけではございません。
英語やフランス語といった、西洋の言葉の授業が始まりました。
朝鮮では、漢語を学ぶことこそが最高の教養とされ、西洋の言葉はどこか実用的なものとして控えめに捉えられる風潮がございました。
それなのに、ここでは新しい時代の教養として当たり前のように教えられます。特に発音の難しいフランス語は、どうしても馴染めず、苦手で仕方がありませんでした。
女子学習院の国語の時間に教わりますのは、はるか昔に作られた古い和歌や漢詩の暗記と解釈ばかり。
もちろん和歌の詠み方も教わりましたけれど、それはどれも、決まった形にはまった堅苦しいものばかりでございました。
日之出小学校の、風のように自由な言葉で、自らの心をありのままに託す喜びは、もうどこにもなくなってしまいました。
学年が一つ下には、幼稚園時代からの数少ない友である趙淑鎬さんがいてくれましたから、一人きりで取り残されていたわけではございません。
けれど、あまりにも違う二つの世界のギャップに、私の心はただただ戸惑い、きしんでいくばかりでございました。
さらに、日本での生活がそれまでと大きく違いましたのは、学校に通うだけではなく、大人の王公族としての責務――公務を果たさなければならないということでございました。
朝鮮にいた頃にも、私の作った詩の発表会に総督が来られたり、宮様方が私の授業を見に来られたりすることはございました。
けれどそれは、私が主人公の催しであり、心地よい緊張の中にもどこか誇らしく、晴れがましいものでした。
しかし、日本での公務は全く異なっておりました。私は主役ではなく、数多くいる皇族方と並ぶ「来賓の一人」に過ぎず、ただそこに間違いなく列席しているという、張り詰めた義務ばかりが大きくのしかかってきたのです。
一九二七年の桃の節句には、アメリカから贈られた「友情人形」の歓迎会が催され、私は北白川、竹田、朝香の各宮家の若宮殿下たちとともに列席いたしました。
大抵の公務は、垠お兄様と方子様がご一緒でございました。けれども、一段高い来賓の席に着くたびに、私はもう一人の子供ではなく、役割を持った“大人の王公族”として振る舞うことを求められているのだと感じていたのです。
馴染めない学問、そして自分のものではないような重苦しい公務――。
そうした小さな違和感や張り詰めた緊張が、幾重にも、幾重にも私の心に降り積もっていきました。
気がつけば、私は次第に口数を失っていったのです。あんなに毎朝が待ち遠しかった学校へ行くことが、だんだんと楽しくなくなってしまっておりました。
私の異変に気づいた方子様が、なんとか励まそうと、王宮の味を再現した懐かしい朝鮮料理を作って待っていてくださることもございました。
けれど、その温かなお心遣いを前にしても、私の心の奥に立ち込めた暗い霧が、すっきりと晴れることは容易ではございませんでした。




