童謡の姫君さま
私が作った詩のいくつかには、当時の日本を代表する名だたる音楽家たちが、こぞって美しい曲をつけてくださいました。
伝統邦楽に洋楽の息吹を吹き込む
「新日本音楽」の運動を率いておられた、箏の名手・宮城道雄先生。
先生が朝鮮を訪れた際には、私が詠んだ『蜂』や『雨』に典雅な旋律をつけてくださり、それはのちに日本ビクターからレコードとなって発売されたのでございます。
また、黒沢隆朝先生も私の『はち』『雨』『びら』『とんぼ』といった詩に次々と曲をつけ、それらを収めた童謡集を世に送り出してくださいました。
なかでも『びら』という詩は、日之出小学校の学友たちの間では『飛行機』という親しみやすい呼び名で広く歌われておりました。
一九二三年に開催された
「徳恵姫御作童謡発表会」でお披露目されたこの曲は、翌年には可愛らしい振り付けも加えられ、童謡踊りとして華やかに披露されたこともあったと聞いております。
私が東京の学習院へ移ってからも、
この『びら(飛行機)』の歌は、日之出小学校の後輩たちによって長く歌い継がれていたそうでございます。
朝鮮新聞社が主催してくださったその発表会は、京城公会堂を借り切って、じつに盛大なものでございました。
いくつもの学校から集まった三百人ほどの子どもたちや、大勢の婦人方で会場は埋め尽くされていたのです。
客席には時の斎藤実総督までわざわざ足を運んでくださったと後で聞き、幼い私は、誇らしいような、どこかくすぐったいような不思議な高揚感に包まれたことを覚えております。
後年、多胡吉郎氏という文筆家の方が、私の詩才についてこう書き残してくださったというのです。
『現地の日本人教育者や児童文学者たちから注目され、童詩の天才とまで讃えられた』
――今にして思えば、あまりにももったいないほどの賛辞だと思うのでございます。
ただ、同じ方の別の著書には、私のことを
『もの言わぬ人となった悲劇のプリンセス』とも記されていたと聞きました。
……それもまた、間違いではございません。
けれど、私には確かに、少女の頃、
詩に、和歌に、その瑞々しいきらめきを惜しみなく発揮し、「詩の天才」と呼び慕われた輝かしい時代があったのです。
それだけは、誰の手によっても決して取り消すことのできない、私の真実――。
今の世で私の名前を耳にする人の多くは、きっと私を
「歴史の荒波に翻弄された、悲劇の皇女」としてしか記憶していないに違いありません。
時代に流されるままにお輿入れをさせられ、やがて心を病み、静かにもの言わぬ人となった哀れな女
――それだけが、私の人生のすべてとして語り継がれているのかもしれないのです。 けれど、もしそれだけだとしたら、あまりに寂しいではないですか。
朝鮮の言葉しか知らなかった幼い私が、見も知らぬ異国の言葉であったはずの日本語を、ただ日々の暮らしに不自由しない程度に覚えたのではございません。
その言葉の韻律を踏み、傷つきやすい自らの心を託し、“詩”へと昇華させていた、あの奇跡のような日々の記憶が、歴史の闇に置き去りにされてしまう。
日之出小学校に編入したばかりの頃の私は、日本語の読み書きこそ幼稚園で習っていたものの、自ら詩を紡ぎ出すなど思いもよらないことでございました。
それが、恩師たちの温かな導きのもとで、いつしか自分の心の内を、異国の言葉のリズムに乗せて軽やかに歌えるようになっていたのです。
宮城道雄先生や黒沢隆朝先生といった第一線の音楽家の方々が、わざわざ私の詩に曲をつけてくださったのも、きっと、単に私が「王の娘」だったからという理由だけではなかったはずだと、そう信じたいのでございます。
思えば、それは私ひとりの才能だけで成し得たことではございませんでした。
徳寿宮の中に私専用の幼稚園を設けてくださった父の深い慈愛。そして日之出小学校という、当時としてはこれ以上ないほどに恵まれた学び舎で、熱心に教えてくださった先生方。
そうした幾つもの奇跡のめぐり合わせがあったからこそ、私の小さな芽は健やかに花開くことができたのでございます。
けれど、特別な恵まれた環境という条件をすべて差し引いたとしても、
一人の少女が、自らの心で異国の言葉を操り、あれほど美しい詩を紡げるようになったということ――。
その一歩一歩だけは、のちに誰がどのように語ろうとも、紛れもない私自身の足跡であり、私の誇りなのでございます。




